module.

 先日、Tと話しているときにも話題に上ったのですが、僕達の肺の中って、どうしていつまでも埃まみれになったりしないのでしょうね。いくら鼻や喉でフィルターのようなことをしたって、絶対に肺の中にも埃は到達するはずだし、10年も生きていれば肺の中は埃だらけになってしまってもいいような気がします。

 ここのところ3本のDVDを買いました。3本とも何度も見たことがあるものばかりで、たぶんこれからも時々は見るだろうし、それに英語の教材という大義名分を載せて買いました。タイトルは「グーニーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャ」「スクール・オブ・ロック」で、僕は幼稚臭い映画が好きなのだなと改めて思った。今、もう一つ買おうと思っているのが「オレンジカウンティ」です。「オレンジカウンティ」は勿論映画で、日本でも少しだけ話題を振りまいたアメリカのドラマ「The O.C」とは違う作品です。このO.Cはオレンジカウンティの略ですが、映画とタイトルが同じになるので、それを避けるためにこのようなタイトルになったそうです。実は僕はこれも見ていますが、ビバリーヒルズ高校白書の再来で、カリフォルニアに暮らすお金持ちの華やかな生活が描かれています。

 悩みだ、というのも変ですが、僕は自分の映画の趣味がとても子供じみていることに漠然とした不安を覚えることがある。見るだけならば、ゴダールトリュフォーもクロサワも小津も見たことはあるけれど、特に面白いとは思わなかった。良いとは思っても、それではまた見たいかと聞かれると、多分首を横に振ることになるだろう。
 対して、グーニーズなんて子供のときからもう何度見ているんだろう。

 僕は基本的には同じ映画を2度も見ない主義だった。どうしてこんな些細なことを覚えているのか、小学生のときに映画好きのU君に「分かってないなあ。いい映画って何回見てもいいんだよ」と言われたのを今でも鮮明に思い出す。28歳になってから小学生U君の意見が飲み込めたというのも悲しい話ではあるけれど、28歳になって僕はやっと彼の言っていたことが分かった。
 僕の好んで見る映画が、いわゆる「良い映画」なのかどうかは他にして、確かに映画というものは何度でも繰り返して見ることができる。それは、実は映画というのが「物語」ではないからだ。

 僕は昔、テクノやエレクトロニカを聞くことができなかった。メロディラインのしっかりした、あるいはボーカルの入った音楽ばかりを聴いていた。ところがある日、エレクトロニカが好きなFに「あなたはメロディを聞いているんだと思うけれど、私はその瞬間の音、音を聞いているの」と言われて、僕はその日からメロディのない音楽を聴くことができるようになった。

 今思えば、映画を2度見たりしないというポリシーをなくしたのと、音楽にメロディを求めなくなったことは、実は同じ背景を持っている。
 映画を何故2回見なかったのかというと、それは僕はそのストーリー展開を一度目の鑑賞で把握しているからだった。僕はもうその話をしっているから、その先の展開を知っているから、だからもう見ても仕方がない、という考え方だ。僕にとって当時、映画というのは未知なる展開の連続で編まれた一遍の物語だった。重要なのは起承転結だった。でも今はそうではない。丁度、物語ではなく、連続した写真作品を眺めるように映画を見る。物語はその結果立ち上がるかもしれないが、映画そのものは物語ではない。映画というのは推理小説ではなくむしろ写真集なのだ。
 音楽を一連のメロディ構成として聞くのではなく、その瞬間の音で捉えるというのは、映画を物語として捕らえないで場面の集合であるという捉え方にとても似ている。
 ただ、もちろん時間の流れを無視して純粋にその瞬間の音を捉えたり、シーンを捉えたりすることはできない。音楽でも映画でも、時間というのはもっとも重要なファクターになりうる。全体としては一つの流れであっても、捉え方はもっと微分要素にしぼることができるようになった、というくらいの意味合いです。
 すこし大袈裟な言い方をすると、これは僕が人生を一つの物語ではなく、無数個の場面の集合であると捉えるようになった結果だともいえる。

 例えばロールプレイングゲームをしていて、レベルが30になったのに、セーブが消えてしまってまた最初からやりなおし、というような「やり直し」が僕はとても苦手だった。誰だってそんなのは嫌いに違いないけれど、僕は嫌悪していた。でも、今ならそれにも耐えることができる。同じ作業であっても、僕とその作業を含めた系全体はもはや以前とは全くことなったものであり、その作業をしているときにはその前後の脈絡というものは大して重要ではない。

 別の言い方をすれば、僕達はけして同じ作業を繰り返すことはない。ここに一冊の本があり、そして一人の人Aさんがいるとして、Aさんはその本を読む。一度その本を読み終えたとき、Aさんはその本を読む以前のAさんとは異なっている。何故なら読書がAさんに何かしらの影響を与えるから。ここでAさんが再びその本を読み始めるとすると、以前のAさんとは違った状態のAさんが読むのだから、本の中身が同じであってもAさん本から受ける影響は前回とは異なっている。そしてAさんはさらに変化し、ここでまた本を最初から読むとさらに異なった影響を受けたことなったAさんになり、この相互作用は永久に終わることがない。だから、本来ならば僕達はたった一冊の本を永久に読み続けることができる。
 永久にというのは違うかもしれないですね。この系はどこかへ収束するかもしれません。でも、どちらにしても何回か同じ本を読んだり、映画を見たりすることは全然わるくないな、と思います。
 
広告を非表示にする