ライフゲーム。

 店長っていったって、別に肩書きのことであって、それは単なる役職名だから、別に偉いとかじゃないのに、なんか威張ってて腹が立つ。

 と、ずっと昔にしていたアルバイト先の同僚に言われたことがある。そのとき僕はこう言った。

「店長って偉いよ」

 店長は偉い。店長というのは、例えば僕達アルバイトがなんらかのミスを犯したとき、「その責任は私が持つ」と構造的に宣言している人のことだ。だから、アルバイトというのはラディカルな意味合いでは無責任に働いている。責任は自動的に店長の方へ行く。だからこそ未熟なアルバイトという存在が実際にお金の動くプロフェッショナルな世界で実働しているのだ。「君の責任は私が持つ」と言ってくれる人間に対して、その人が「偉くない」とは僕には思えない。

 肩書きといえば、僕は今、ある意味ではある肩書きを取得しようとする過程にある。何かの肩書きを得ようとすることは、ときどき虚しく見られる。肩書きではなくて中身が問題だろう、という風に。それは一面では正論だが、一面では完全に間違っている。
 どうしてかというと、肩書きというものは本質的には永遠に手に入らないものだからだ。それは決して僕達の手の届くところには存在できない。それは常に我々の未来に存在している。肩書きを得る以前、僕達はその肩書きを手に入れるためになにかしらのアクションを起こす。そして、その肩書きを得た後、僕達はその肩書きに相応しくあろうと行動を続ける。だけど、その「相応しい」ということには際限がない。だから、半永久的な運動を僕達は余儀なくされる。ちょうど馬の鼻先にぶら下げたニンジンのように、本質的には肩書きは手に入らない。そして、僕達は走り続ける。つまりそれは幻想であり、幻想であるゆえに現実的に必要なものだ。
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