Q。

 2004年の8月13日に沖縄国際大学に米軍のヘリが墜落した。その日、沖縄以外の場所から発信されたニュースのトップは巨人の渡辺オーナー辞任に関するものだった。

 という衝撃的な括りで終わっていた友人の日記を読んだ。
 リンクが張られていたので、そのリンク先を開いてみて、そして僕は複雑な気分になった。

 これから先は、ものすごい躊躇いと共に書きます。たぶん、こんなことは書かない方がいいのかもしれない。これはある意味では僕の人格の欠陥と基地問題に対する知見のなさを暴露することに繋がる。それに批判する対象がきちんとした論理を持っているのに、僕はそれを理解したがらないで無理矢理批判しようとしている。それは全て、文面が不愉快だというバカみたいな理由に拠っている。

 リンク先は沖縄国際大学のヘリ問題学生対策委員会( http://www1.odn.ne.jp/okikokuiinkai/index.html )なのですが、先に率直な感想を書くと、その文面が僕にはとても不愉快だった。

 要旨、とされているものを引用すると、

【趣旨】


 もうすぐ沖国大への米軍ヘリ墜落から1年が経過しようとしています。墜落に抗議する世論の高まりにもかかわらず、米軍は、この1年のあいだにも事故・事件を次々と引き起こしています。最近も、本島中部で米兵による女子小学生わいせつ事件が起こり、キャンプハンセンでは米軍演習による山火事が発生しました。そして、金武町伊芸区キャンプハンセンでは1年以上に渡る地元住民をはじめとした抗議にもかかわらず、米陸軍の都市型戦闘訓練が強行開始されました。

 これに対して県内では、再び米軍に対する怒りの声が高まっています。7月19日に開催された都市型戦闘訓練施設の撤去を求める金武町での「県民抗議集会」には、わずか4日の準備期間にもかかわらず、1万余の人々が県内各地から集まり声をあげました。辺野古でも基地建設をストップしています。
いまこそ、基地撤去の声をさらに高めるために、米軍ヘリ墜落の現場から普天間基地撤去の声をあげ、全県的な団結を深めることを基礎に全国にアピールすべきときではないでしょうか。

 昨年、8月のヘリ墜落以降、県内大学の学生・教職員はさまざまなかたちでアピールしてきました。ヘリ墜落から1年という区切りの時にどうするのかということが社会的にも注目されています。墜落現場の壁も撤去されたなか、私たちじしんがアピールしなければ、結局、抗議の声は収まったと受け取られかねません。米軍司令官が、ここにいたってもなお、“米軍が何もないところに普天間や嘉手納の基地をつくったあとに住民が近づいてきた” と白を黒と言いくるめるたぐいの暴言を叫んでいることを許してはいけません。

 そこで、学生・教職員といった立場を超え、一大学人として声を合わせて社会に向けたアピールを発することを提案したいと思います。ヘリ墜落からちょうど1年の8月13日に、記者会見等をつうじてこれを発表する予定です。大学人の広範な力の結集をもって基地撤去に向けたさらなる声の高まりをつくりだしましょう。

 つきましては、趣旨にご賛同いただき、ともに名前を連ねていただけるようお願いします。ぜひ、よろしくお願いします。
 
(以上、引用終わり)

 これを読んで不愉快になるのは、単に僕の器量が小さいせいだろう。
 だけど、僕にはこの”アピールしていきましょう”という言葉を快く受け入れることはできない。なぜならば、アピールの対象がどうしてか「全国」だとか「社会」であって、「米軍」でも「日本政府」でも「アメリカ政府」でもないからだ。このメッセージから僕が読み取れるのは「私達ってこんなに困ってるんです。助けてください」ということのみで、主体的なアクションが見えない。
 もちろん、社会に広く状況を認識させることは一つの戦略になり得る。僕を含めた全日本国民は沖縄の基地問題の当事者に含まれるはずだが、日常的にそれを意識することはほとんどない。これは日米構造が今の形であることを考えれば異常なことだし、多分日本という国家にとって大きなビハインドだ。上記のサイトにある米軍が沖縄国際大学のキャンパスを閉鎖している写真をみれば、たぶん普通の日本人は怒りを覚えるだろう。僕はとても嫌な気分になった。もちろん、その不快感はその写真に写っているアメリカ軍に対するものでアメリカ人一般に関するものではないけれど。
 しかし、このように世論を動かそうという方向性はそれほど有効ではないし、そのことには本人達も気が付いているのではないだろうか。

 ここまで読んで、多分僕の文章に不愉快を覚えた人がたくさんいらっしゃると思います。それは半分は僕の計算ですが、半分は計算抜きの正直な気持ちです。だから、その点で僕は文句を相当に言われるかもしれないなと思いながら書いています。
 もしも読者の方が不愉快に感じていらっしゃるなら、その中には「じゃあ、あなたはここに書いているようなことを沖縄国際大学に向かってダイレクトに言えるのか。ごちゃごちゃとブログに文句を並び立てるよりも文句があるなら当の本人に言えばいいではないか」という意見があると思います。

 僕はここに書いたことを当人達に伝えないでしょう。それには主に2つの理由があります。

 第一に、僕がここに書いていることの意味をまだ自分で咀嚼していないこと。つまり自信がない。というよりも寧ろちょっと間違ったことを書いているという落ち度の自覚がある。

 第二に、直接意見を言って、その後に始まるであろう議論に労力を割く意思がない。つまり、本気ではない。

 以上の理由から、僕はこの文面を沖縄国際大学に送るのではなく、それとはかけ離れた個人の日記に載せています。できれば、沖縄国際大学の人がこれを読んだりしないといいな、とまで思っています。かなり暗いモチベーションだと言い得る。

 『僕は自分の言っていることを良く理解していなくて、さらに本気で議論をするつもりがないから、当人に言わずブログで愚痴を言っている』

 これと同じ構造が、今の話題にはもう一つ含まれているのではないかと僕は思う。こう書きかえられはしないだろうか。

 『沖縄国際大学の委員会は自分の言っていることにいまいち自身がなくて、さらに本気で米軍や日本政府と議論する気がないので、とりあえず「全国」「社会」にアピールしている』

 もちろん、これも相当穿った見方なのでしょう。
 僕が実際に米軍の近くで暮らしている人々の気持ちを全く理解していないだけで、住民の人々は実にシリアスな思いで日々を暮らしていて、引用した文章だって切実に書かれたものなのかもしれない。
 でも、だとしたら本当はすべきことが他にあるのではないかと考えてしまうのです。それが何なのか今の僕には分からないけれど、こうやって世間にアピールしたりデモをしたりする他に手立てがないというのは、もしもそうならなんて閉塞された社会なのだろうと思う。そして、ひょっとするとそれが現実なのかもしれないと考えて背筋が寒くなる。

 こんな風に軽薄なことを書くのは僕の見識が低いことの証明だろう。
 上に書いたことは「本気はないからアピールしているのだ」という風に要約することができますが、逆に「本気になるべきだ」とも僕は思わない。ここで本気というのは命を掛けて、というくらいの意味合いです。不愉快だし危険はあるけれど、でも命を掛けてまで米軍の基地を追い出そうとは思わないでしょうし、沖縄に住んでいる人が、沖縄に住んでいるという理由から命がけで基地を追い出す、というのはおかしなことです。たとえば僕は京都に住んでいますが、京都に住んでいるから沖縄から米軍を追い出すことに命を掛けなくていい、ということにはならない。できれば物事は誰も命を掛けたりなんてしないで、個人の負担が小さいままで解決したほうがいい。

 となると、やっぱり全国にアピールというのはベストな手立てにも見えます。
 論旨がふらついていて申し訳ありませんが、僕はこの手の問題にどうやって対峙していけば良いのか、皆目検討が付きません。
 


2007年4月25日水曜日

 研究室。

・黒糖蒸しパン
・すき焼きのような煮物
・フレンチフライ
・ご飯
・カボチャサラダ
・豆とマカロニのサラダ
・揚げとワカメの味噌汁
・ご飯
・プラムワイン
・ポップコーン

2007年4月26日木曜日

 部屋の掃除などをした後、夕方からWと日仏学館へダンスの映像作品を見に行く。軽い気持ちで行ったのだけれど、途中で立食パーティーを挟んで4時間近くもあり、終わると10時だった。そのままメキシコ料理屋へ。

・立食パーティーのイタリアン
・奈良漬のパスタ
・メキシコ料理(また名前が分からない)
・ワイン
テキーラ
・ポップコーン