composition No,5.

 「私はあなたの住んでいた町を見てみたい。」

 「I want to see the city you have lived in.」

 日本語は細部から出発して全体へと至る。
 対して、主たるヨーロッパ語や中国語は全体から出発して細部へと至る。

 言語体系が先で、思考体系がそれに従うのか、それとも思考に言語体系が従うのか、どちらが本当なのかは良く分からない。だけど、少なくともこの日本語の言語活用ルールが日本の文化を強く反映していることは確かだ。

 たとえば、隣の国であり、文化圏をかなり近いと考えても良い中国と日本を比較してみればいい。中国は上にも書いたように英語などと同じく「全体から細部」という言語運用を行う。その国で書かれた説話集『法苑珠林』と、同じ説話集の日本語版『日本霊異記』を比較すれば、同じ話ではあるものの『日本霊異記』のほうが細部に渡る緻密な描写が成されていることは明らかだ。穴に落ちた男を助ける話では、中国では「助けた」と書くに留まり、日本ではそれはどのように道具を工夫して助けたのか、ということが仔細に描写されている。

 日本には文学作品はあるけれど、全体を統括するような文学理論がない、と長らく言われてきた。西洋にはギリシアを発祥とした巨大な哲学体系・思想体系が存在しているが、日本にはそういった体系は存在していない。しかし、それでは日本にはそういった哲学が存在しなかったのかというとそうではなくて、それらの思想というものは「体系」ではなく「個々の作品」の中に生生しく表されている。
 中国にには古くから詩の理論が存在していて、日本には存在しない。だけど、日本には短歌を初めとした洗練の局地にある詩の文化が存在している。誰もそれを分析して体系付けようなどとはしなかっただけだ。少なくとも近代までは。

 西洋の文学作品に比べたら、日本の文学作品には構成というものがない。たとえば日本文学最高峰の一つである源氏物語はだいたいの構成がないとも言えないが、基本的には個々の小さな話がそれぞれに描かれているし、今昔物語に至っては短い話が適当に集められているにすぎない。一応の分類はされているが分類に法則のようなものは見出せない。大事なのは個々の話であり、細部であり、全体ではないのだ。

 このようなピンポイントの考え方は日本古来からのものだといえる。なぜならば日本の神話では時間のはじまりとか終わりとかいう概念がない。連続して流れていく時間という概念がなく、単に今がずっと続いていくという記述しか見ることができない。
 日本人は仏教が伝来するずっと以前から極度の刹那主義者だったのだ。

 日本の話言葉では、いとも簡単に主語や目的語が省かれる。それはどうしてかというと、その場に居れば誰が主語に当たり、何が目的語に当たるのか、ということが自明だからだ。これは逆に言えば、その場にいない人には省略は通用しない、ということを意味している。つまり、日本語の話言葉というものは「その場にいる人間だけに通用する」ということが暗黙の前提として定められているのだ。だから日本語は普遍性を持っていない。省略のない話言葉はどのような文脈に置かれても理解されるが、日本の話言葉はそれを使った場所・時間以外の場所ではもう機能しない。これは日本人の自己中心的な思想を強く反映している。加藤周一さんが日本語における「国語」という言葉の使い方を「普遍性がない」と批判したように、日本語はその話法において既に普遍性を排除している。

 日本語は、その場限りの言葉であり、日本の文化は、ここだけしか見ない文化なのだ。日本人は分かりにくいということが時々言われるけれど、それは当然の話で、そもそも日本人は他文化圏の人間に何かを伝えるという概念を持っていなかった。

 こういったことを考えていて思い出したのが、昔D君に指摘された。アメリカンジョークは短いしディテールがないけれど、日本の落語は長いしどちらかと言うと落ちよりも話の状況自体を楽しむ傾向がある、ということだった。
 細部を重んじて全体の構成をあまり気にしないというのは、アメリカンジョークと落語を比べれば一目瞭然だ。
 アメリカンジョークは

  太った婦人がアヒルを連れて酒場に入ってきた。
 「ダメじゃないか、こんな所にブタなんか連れてきたら」
 「何よ、この酔っ払い。どうしてこれがブタに見えるのさ」
 「今、俺はアヒルに話しかけたんだ」

 という風にあっさりと数秒で語り終わってしまいますが、落語は何十分も掛けて事細かに状況を描写する。落語は物語であり、それは僕達を別の世界へ連れて行く力を持つ。

 そうして、僕は日本の文化が細かいことにこだわるものだ、というテーゼを全く納得しそうになっていたのですが、良く考えてみればとても引っ掛かることが思い出された。
 それは日本のデザインのことだ。

 ミンパク(国立民俗学博物館のことです)へ行って、各国の伝統文化を眺めると一目瞭然なのですが、日本の展示物を見ると、細部にこだわるどころか、細部なんてあったものではないのです。良く言えばミニマルデザイン、悪く言えば手抜きで「模様なんていちいちつけていられるか。使えればそれでいいんだよ道具なんて」という声が聞こえてきそうな気がします。
 他の国の展示物には細かい彫刻や極彩色のペイントが施されていて、どうして日本のものだけこんなに質素なのだ、と思い悩んでしまう。
 これでは話が全く逆だ。日本人だけ細部にはこだわっていない。
 どういうことだろうか。

 良く分からないので、一旦この話をのけておくと、一部の批評家達が「日本らしさを持っていない」とこき下ろそうとしている今や世界的な作家、村上春樹さんが実はいかに日本的な作品を作っているかということが見える。村上さんは「ストーリーなんてどうだっていいんだよ。大事なのは語り方だ」みたいなことを言っていたように思うのだけれど、これは全体の構成ではなくて細部の描写に力を入れるということの現われではないかと思うのです。


2007年4月24日火曜日

 食べたもの
・トマトとブラックペーストの全粒粉パスタ
・ホウレン草のおひたし
・ご飯
・すき焼きみたいな煮物
・ココア
・黒糖蒸しパン