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 言語文化情報学の講義で「加藤周一 歴史としての20世紀を語る」のビデオを見た。2000年にNHKで放送されたものだ。加藤周一という人のことを僕は有名な批評家でなんとなく朝日の匂いがする人だという以外に何も知らなかった。このビデオを見て特別な感慨を受けたとか感動したとか、そういったことではないですが、来週のクラスまでにビデオの内容をすっかり忘れてしまう可能性が随分と高いので、いくらか記憶が保たれているうちにメモをしておこうと思う。

 日本国憲法はもともと英語で書かれた物が日本語に翻訳されたが、翻訳の仕方にナショナリズムの影がある、というような話から始まったので僕はさっそく躓いた。たとえば「我々日本国民は」というのは元々「 we, the Japanese people 」の役で、英語ではどこにも「国」なんて言葉は入っていないのに日本語に翻訳すると日本”国”民になってしまう。peopleというのは限定なしの「人々」でしかないのに日本人が訳すと国民になる。アメリカ人にとってはpoepleはアメリカ人も表すことができるし、メキシコ人だって表すことができる。というのが加藤さんの主張だけれど、でも今は文脈が"the Japanese people"なんだからそりゃあ日本人のことしか表していないんじゃないか、と僕はもう何がなんだか分からなかったのですが、よく考えてみるとそれは日本国民の国民という概念に関する意見だった。

 つまり、日本語における「国」という言葉の使い方の問題のことです。僕達は日本語のことを国語と呼ぶけれど、たとえばフランス人がフランス語でフランス語のことを国語と呼ぶかと言うとそんなことはない。国語に対応するフランス語はない。それはなぜかと言うと、一つにはフランス語が話されている国は別にフランスだけではないからだという話があとから出てきた。
 このクラスの先生はフランス人なのですが、最初、日本に来て履歴書のようなものを書くときに、フランスでフランス語を教えていたことがあったので「フランスで国語を教えていた」と書いたら相手に誤解されたという話をしてくれた。フランス人にとっての国語はフランス語だけれど、日本語の単語で「国語」と書くとそれはもう文脈や話者の国籍によらず日本語以外の言葉を表すことができない。これを”ほぼ”単一民族、単一言語国家である日本のナショナリズムの一片だというようなことを加藤さんは言っているわけだろうな。
 ただ、僕にはそれがナショナリズムだとはあまり思えない。

 本のタイトルだけは知っていたけれど、加藤周一さんの代表的な著作は「日本文学史序説」(もちろん、国文学史序説とは言わない)という本で、これは日本文学を「もののあわれ」など日本人特有の感覚でしか理解できない言葉を使わないで「普遍的な概念で」表そうとした著作だということだけれど、僕にはその普遍さというものがどこに担保しているのか、よく分からないし、もしもその本の意図が成功しているのならそれはすばらしい仕事だと思うので図書館で借りてみようと思う。
 本当は、普遍的な概念だけを用いて、ある国家固有の感覚を表現することはできない。たぶん、それは加藤さんもきっと良く良く理解されていて、その上で道をさがしたのだと思う。

 このビデオの主題は「ナショナリズムを言葉で超える」というようなものだった。加藤さんは外来語の多用と日本で再興しているナショナリズムは矛盾しているし理解できない、ということをおっしゃっていたけれど、それはナショナリズムがこの国の極一部で起こっていることにすぎないからだと思う。すこしだけ失礼なものいいをすると、加藤さんはナショナリズムを消したいのではなくて攻撃したいように見えることがあった。つまり、彼にとってナショナリズムというのは消えてもらっては困る対象でもあるように見えた。それとも僕がナショナリズムについての自覚を持たなさ過ぎるだけだろうか。

 外来語の使用、カタカナ言葉の使用は、意味をオブラートに包んでぼやかすもので、その言葉を用いている人は本当の意味を知らないし、全部を曖昧にする手立てだということもおっしゃっていたけれど、僕はその意見には反対だ。
 外来語をそのまま使うというのは「日本人の頭ではストレートには理解できないけれど、でも良く考えればそのような概念の存在も理解できなくはない」という概念を持ち出す。ということで、それは日本語にはない概念を導入する試みの一環だ。それはやがて日本語の中でこなれて、世代が変わる頃には日本人はその新しい概念を実質的なものとして獲得することができる。だから、外来語の使用を「分からないくせに安直に使っている」というのは、できないことをできるようになろうと練習している人に対して「できないくせにやるな」というようなものだ。それでは物事は前へ進まない。

 もう一つ、日本が中国や朝鮮に日本の宗教である神道を押し付けたことに対して、それはキリスト教仏教と違って無理なことだ、ということを加藤さんが言っていたけれど、確かに僕もそのように思えて仕方ない。どうしてだろう。
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