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 「中学高校と、6年間も英語を習ってきたのに英語が話せないのは日本の英語教育が間違っているからだ」という古典的な意見を久しぶりに耳にした。そういう意見を聞くと「それじゃあ、あなたは小学校、中学校、高校と12年間数学の勉強をしてきたのでどんな数学の難問も解くことができて、同じく12年間体育の授業を受けてきたので月面宙返りができるんですか?」と質問したくなる。

 学校での教育はスペシャリスト養成のことではない。1年も留学すればじゃべるようになるのに、6年も習ってしゃべれないなんて、という人は比較対象にものすごい無理があるということに気がついていない。それから日本の学校教育における英語というのはあくまで英語であって英会話ではない。道具として英語を習得する目的に併せて、そこには他言語を分析しながら習得することで日本語の枠組みでは不可能だった思考回路を指向するという目的がある。日本語の文法も国語で習うけれど、既にネイティブな日本語話者である僕達は、日本語文法の習得を煩わしい、役に立たないものとしてスルーする傾向がある。たぶん、文法という観点からすれば、多くの日本人は日本語の文法よりも英語の文法に詳しいはずだ。僕はこれが最も大きな学校教育における英語の効用だと思う。日本語の場合はその中にどっぷりと浸かっていて、日本語そのものを対象化することは難しい。そこで、代わりに手頃で便利な言語体系を持ってきて、その言語に対して外からの視点でメスを入れると言うのが最大の意義だ。それによって僕達は初めて文法という概念、ひいては思考のベースである言語に仕組みがある、思考には仕組みがある、ということを体感する。このことに比べたら、はっきりいって、英語の会話ができる、なんてどうでもいいような小さいことだ。

 僕は間違えて電子情報工学科というところに入学してしまったのですが、プログラミングの授業か何かで最初のセットアップを行うとき、「ここはパソコン教室じゃないから、パソコンの使い方なんてわざわざ教えないから、そんなのは各自勝手に勉強してください。この授業で勉強することは街のパソコン教室でやってる”使い方”じゃなくて、パソコンの中身、仕組みの方です」と先生が言って、僕はなんとなくそれはそうだな、と納得した。
 中学高校の英語というのはこれに近い。留学したりNOVAへ通ったりするよりも、僕にはずっと重要なことに思える。その上に会話の能力を積むかどうかは各自の好みの問題だ。