色の名前を何度も繰り返す。

 最近、というかもう何年も前から小学校は週休二日制だというのを聞いて吃驚していたら、そんなことすら知らない僕に吃驚したYちゃんは続けて、「最近はもう道徳って教科はなくなったのよ」と、さらに僕が驚愕せざるを得ないことを言った。そうか土日は休みで、道徳の授業はないのか。僕は小学生のとき道徳と国語の授業の違いがあまり良く分からなかったのだけど、道徳の教科書に載っているへんてこな話を叩き台にしてクラスでガヤガヤと文句を言い合う授業はとても楽しかった。Yちゃんの言によれば、なくなった理由は、道徳観なんてそれぞれで、学校で一くくりに教えることのできるものではないから、というものらしいけれど、あれは「こういうときにはこう感じなさい」という授業ではなくて、単にがやがやするということに意味のあった授業だと思う。確かに教科書に載っていることを真に受けるととんでもないことになるけれど、ガヤガヤするにはとても良い機会だった。

 道徳の教科書に載っていた話で、一つだけ良く覚えている話がある。
 それは危篤に陥った祖母を見舞うため、ある女の子がお父さんの運転する車で病院へ向かうのだけれど、高速道路で渋滞に巻き込まれる、というもので、女の子は一番左にある緊急車両用の通行路を見つけて、「お父さん、あそこは空いてるよ」と言うのだけれど、「あそこは救急車だとか消防車だとか、緊急のときにどうしても通らなくてはならない車のために開けてあるのだよ。だからあそこは通っちゃいけないんだ」とお父さんに窘められる。
 しばらくすると、渋滞に痺れを切らした若者の車がその緊急用レーンを使いだして、すいすいと渋滞の横を抜けていく。女の子は、みんな使っているのだから、と言う。でもお父さんは頑として「あそこは使っては駄目なのだ」と首を縦に振らない。

 なんともいかにも作られている話で、べつに面白くもなんともないのですが、どうしてか僕はこの話を良く覚えている。それはたぶん僕が「いや、危篤の母親にあいに行くのは十分緊急事態なんじゃないの」とその父親につっこみを入れていたからで、その批判性というのはつまり道徳の授業や教科書全体の持つ「道徳とはこうだ」という囲い込みの態度に向けられたものだった。僕はこの話を読んだときに道徳の教科書が持っている戦略が分かったのだと思う。だから良く覚えているのだろうと思う。

 道徳というのが本質的に何を目指していたのか、未だに良く分からないけれど、でも人を大事にしなくてはならない、という精神が根底に流れているのは明らかだった。そのイデオロギーは別に悪くない。だけど、いつも腑に落ちなかったのが、「あなたは世界にたった一人しかいない。代わりになる人はいない。だからあなたは大事なのだ」と言ったように意味の分からない理由をつけて人は大事だと言うところだ。
 人ではなくても、別になんだって、あらゆるものは世界に一つしか存在していない。路傍の石ころだってなんだって。だけど、だからといって全てが大事なわけじゃないことは明々白々だ。ものの希少性が価値に直結するのははっきりいって、そのもの自体の「価値」が空虚なときだけだ。そんなものを、希少性なんかを人間が大事な理由のたとえ一角にでもあげてはならないと僕は思う。

 「君は世界にたった1人しかいない。だから君が大事だ」なんて言葉は本当に空っぽだ。「君が世界に100万人いたとしても、それでも君が大事だ」というような文脈でしか本当に大切なことは伝えられない。