push.

 また、4弦が切れた。
 僕はいつもギターの4弦を切るのですが、切るといっても演奏中に勢い余ってではなく、大抵夜中に勝手に切れる。眠っていると壁に掛ったギターから、ギュールルルーと嫌な音がして、あっ、また切れるのか、と目を覚ますとパチンっと弦の切れる音がして、あー切れちゃったなとまた眠りにつく。そして、明くる朝目を覚ますと思った通り4弦が切れている。
 初めて弦が勝手に切れたときは蟲の知らせか何かではないかと思ったけれど、別に弦の切れた夜に近しいところで異変が起こったということもなく、単に僕の弦は夜中に勝手に切れる傾向がある、という程度のことなのだと最近では理解しています。まあ、僕は演奏後に弦を緩めるなんて面倒なこともしないし、結構なテンションが掛っているのだからいつ切れたって全然おかしなことではない。

 弦が切れるとき、僕は眠っていて、弦の切れる予兆となるギュールルルという音を聞いて目を覚ますのですが、いつもギュールルルを聞いてから起きるのではなくて、目を覚ますとギュールルルが鳴り出すような感じがしてしまう。
 これはなにも弦に限った話ではなくて、例えば僕は昔、天井一面に折り紙を張りつけていたのですが、眠っているときにときどき折り紙の一部が剥がれて落ちてくることがあった。そのときも折り紙が落ちてくるのを察知して目が覚めた、というよりは感覚としては目が覚めたら折り紙が落ちてきた、と言った方が近かった。

 なにも僕は予知能力に似た超感覚的な話をしようとしている訳ではなく、脳中での時間の作られ方の話をしたいと思っています。
 言うまでもなく、僕たちは頭の中に各人が確固たる時間の感覚を持っている。ある瞬間と言えばある瞬間のことだ。だけど、よく考えてみれば脳内で情報が処理されるには一定のシークエンスが必要で、当然その過程で時間というものは経過してしまう。
 僕たちの視覚機能というのは脳の中に分散して存在している。たとえば目の前を横切る太り過ぎたプードルを見るとき、そのプードルの「輪郭」と「色」と「動き」は別々の場所で処理されて、そのあとで統合される。物理的な時間を軸に取れば、「輪郭」「色」「動き」の3つの要素が処理された時刻は異なっていると考えるのが自然だ。だけど、僕たちはそれを同時に感知することができる。なにかが右に動いている。それは白い。形は太ったプードルだ。という風に順次見えてくるなんてことは起こらない。もちろん、さらに聴覚、触覚、味覚、嗅覚の情報が統合されて、僕は今ここにいるのだ、という確固たる感覚を得ることに成功している。あらゆる瞬間に。

 だけど、これは尋常ならざるものすごいことだ。
 なぜかというと、僕たちの脳が正確な「同時」という概念を持っている可能性が極めて低いからだ。低いというか、難しすぎるように見える。パソコンと同じように、ある周波数の同期信号を出して、というのも、神経系の遅延を考慮できない人体で実行可能だとは思えない。
 僕たちは、何と何が同時に起こったのかということを知ることは絶対にできない。相対論の話は無視して、単に人体の仕組みを考えたとき、既に同時という考え方は崩壊してしまう。電話の音が聞こえた時、同時にテレビで風邪薬のコマーシャルが流れ出した、というようなことは僕たちには分からない。そんな気がするだけで、検証はできない。本当は僕の頭では、実時間で考えたとき、視覚が聴覚に比して2秒遅れている、という可能性だってある。本当はコマーシャルの方が電話のベルよりも2秒早く流れ出したのに、僕はそれを同時だと思ったのかもしれない。そして、僕はその2秒のずれに気がつかないまま一生を終える。

 実際には2秒なんて大きな時間ではないだろうけれど、これより1桁か2桁小さいオーダーで、みんなの「同時」感覚はずれているのだと思う。上に、僕は五感が統合されて「今ここ」という感覚を得ることに成功する、と書いたけれど、正確に言えば成功ではなく、失敗して代わりとなる幻覚を手に入れることに成功しているということになる。
 だから、時間の感覚というのは本当はとてもいい加減なものなんじゃないだろうか。

 時間の感覚と、感覚の時間。
 こういう経験は誰にでもあると思うのだけど、例えば本屋の中を歩いていたら、何かが急にひっかかって、何が気になったのだろうと本棚をよくよく見れば自分の友達に良く似た名前の作家の本があったとか、それに類すること。本棚を見れば、「今井秀雄」という人の書いた本があって、なんだ、この作者の名前が友達の今川秀明に似てたからだ、という風に。
 これはよく考えてみるとおかしなことだ。
 僕たちは「何かにひっかかった」後、本棚をじっくり見回して、さらにいくらか考えてから「何にひっかかったのか」を知る訳ですが、「何かにひっかかる」為には「何にひっかかったのか」ということを先に知っておく必要がある。先の例を使えば、なんとなく歩いていると「今井秀雄」という作者の名前が目に入り、それが自分の友達の名前に似ているな、という風に少なくとも無意識下では思ったから「何かにひっかかった」わけです。それから「何にひっかかったのか」を探すなんておかしな話です。「何か」がなにかなんて最初から分かっている。
 だから、自分が一体何を感じて何を考えているのか、なんて感覚は実はとても曖昧で、さらに時間軸を考慮するならその順番なんて結構滅茶苦茶でもおかしくないとも思う。
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