Q.

 NO MUSIC, NO LIFEだなんて誇らしげに上げた君の顔に僕は唾を吐く。そのヘッドホンちょっとかしてごらんよ、肥溜めに放り込んであげるから。あっ、肥溜めって知らないかシティガールは。失敬。人の排泄物をね。なに。知ってるんだ。それはそれで失敬。とにかく、君にはそれいらないんだよ。音楽。それからさ。それも要らないよ。タバコ。あと広い世界とか。

 「ドラえもんのび太の魔界大冒険」は藤子不二雄という天才があからさまに現れている作品だ。
 のび太は魔法の存在を信じ、それを人に言うのだけれど誰も取り合ってくれない。漫画という技法を存分に生かして、藤子不二雄は、常識の範疇でのみ思考可能、自分はマジョリティーの中にいて安心してマイノリティーを攻撃する、という大衆を、ドラえもん、しずかちゃん、などのキャラクターを使って表現している。マイノリティーであり、かつ弱者であるのび太の思考は、実は一番鋭い。

「昔話にはたくさん魔法が出てくるのに、あれは全部嘘なのか。昔の人はみんな嘘吐きだったのか」

 唯一の理解者はできすぎ君で、できすぎ君はのび太に「昔は魔法も科学も一つだった。魔女狩りなんかで魔法は滅ぼされたのだ」ということを説明してくれる。さすができすぎ君。
 できすぎ君の言っていることは多分正しいだろう。昔は魔法があった。もちろん箒にのって飛んだという意味ではなくて、妖怪という生き物が文化的に機能していたように魔法もまた社会的な機能を持っていた。のび太はできすぎ君の話を聞いて、「科学のほうが滅びて、魔法が発達したら楽しい世界になったんじゃないか」と考える。そうして「もしもボックス」で魔法の世界を作るのだけれど、そこでは科学が迷信で魔法によって人々は生活している。

 僕たちは日本の個展を読むとき、たとえば源氏物語やなんかの亡霊や怨霊を小説内でのギミックだと思いがちだけれど、たぶん紫式部にしてみればそれらはリアルなものだったんじゃないだろうかと思う。当時は、人々にとってそういった超自然的なものは当たり前に存在していたのではないだろうか。


2006年12月8日金曜日

 Sちゃんの家で鍋をする。
 Sちゃんの家は一軒家で、そこに何人かの人間が集まって御飯を食べたり後片付けをしていると、どうしても僕は法事を連想してしまう。子供の頃は、あまり良く知らない親戚に会って「大きくなったね」と言われたり、「たくさん食べなさい」とどんどん世話を焼かれたり、法事というものが苦手だったけれど、二十歳を過ぎてからはそう悪くもないと思う。
 鍋を食べ終えてから、wiiなる任天堂のゲームで二十代も半ばの大の大人が一頻りはしゃぐ。wiiのゲームはどれも単純な物ばかりで、ハイテクを使って単純かつ原始的なゲームを再現する(たとえばビー玉を転がすなど)というのは、どこか茶道に似ているなと思った。かつて、お金持ち達が自分達の持っていない「貧乏」を手に入れようと、高いコストを払って「貧乏」を買ったのが茶道や「わび・さび」のはじまりだと言われているけれど、たくさんのお金で貧乏を買う行為と、原始的なゲームをハイテクで実現する行為は構造がとても似ている。
 1時頃に切り上げて、帰り道I君とKの3人でラーメンを食べて帰る。

2006年12月9日土曜日

 Sさんのやっているインターナショナル・ポエトリー・リーディングパーティーへI君と行く。
 詩なんて、と思っていたけれど、予想よりもずっと楽しい会だった。
 MちゃんとCDを交換する約束をしていたのに、僕はCDを忘れてしまい貰うだけ貰う。
 アメリカの人が読んだ英語の詩が、ゆっくりだったのにも関わらず全然聞き取れなくて、僕の英語能力ってこんなに低かったのか」とショックを受けていたら、英語がぺらぺらのSさんも「あれ、何故だか分からないけれど、何を言ってるのかさっぱりわからなかった」と首を傾げていたので一安心する。
 パーティーが御開きになり、人が次第に減り、僕らも帰ろうとすると階段を降りたところでお店の人に「今ちょうどコーヒーを煎れたところなんですけれど、良ければ飲んでいきませんか」と引き止められる。僕はコーヒーが飲めないのだけど、せっかくなので「はい、どうもありがとうございます」と言って、I君、Tさんとまた階段を上り、Sさんのテーブルへ着く。
 今までほとんどこういった話をしたことがなかったけれど、4人で博士過程での生活に関する話をする。考えてみればSさんもTさんも博士の2年で、僕とI君にとってみれば先輩なのだ。
 
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