Russian.

 間抜けな言葉で僕を取り囲む
 得意げなうすら笑いに腹が立つのさ
 (by "double knockout corporation")

 昔、ある女の子と御飯を食べていると、彼女は今経済学部だけど、実はその前に芸大生をしていたということが分かった。僕がどうして芸大をやめて経済に転向したのか聞くと、彼女は「いかにも芸大生ですって個性くん個性さんが多くて腹が立つから」と答えた。そのとき僕には彼女の言っていることがあまりよく分からなかった。でも、今では少しだけそれが分かるような気もする。
 この春から服飾の学校に通い始めたEも、先日「がんばって変な服着てる人ばかりで気持ち悪い。卒業まで我慢するけれど」と僕に溢した。

 何か楽しいことをしようとした結果、それが「変な」ことだった、というのが本当だと思うけれど、何か「変な」ことをすればそれで楽しいだろうという本末転倒した考え方が広がっているように思う。それで、面白くもなんともない自己満足な「どう私って変でしょ」というアピールがそこらここらに蔓延していて、彼ら彼女らの得意げなうすら笑いに腹が立つ。それは「変」ではあっても「楽しく」はないのに、引きずられた周囲の人々まで、「何か変なことが起こっているんだから、これは楽しいに違いないのだ」と自分に無理矢理言い聞かせて、結局はうすら笑いを浮かべて楽しい振りをして、家に帰ると「なんだか知らないけれど疲れたな、心が、どうしたんだろ楽しく遊んできた筈なのに」と腑に落ちない様子で眠りに就く。

 僕たちをドライブしようとするこれらのゴミみたいなプロパガンダを、いい加減にノックアウトして平和な世界を取り戻したい。誰かが作った、いかにも本当らしい言葉の数々を、切り裂いて闇の中から気楽な言葉を捜しに、ラジオのチューニングをマニュアルで。「何かに一生懸命な人が良い」とか「好きだけじゃ駄目だ」とか、本当だって? 熱心にそれを語る彼を、熱心に欲望を語る彼を、僕は単に気持ち悪いと思うし、好きだけど赫々然々の理由でって別れる彼らを理解して同情して涙を流せなんてお笑い種でしかない。テレビの馬鹿が喋ってる。ポイントはそこじゃない。

 組み立てられたレディメイド感動装置の中でしか作動しない感情に、ゴミ屑プロパガンダを指針に物事を決めて泣き笑いして、僕は君をヒューマノイドと永劫呼ぶだろう。語れよ欲望、資本主義に裏打ちされた、カネの話だろ、人数を集めて楽しいふりしたいんだろ、帰着する場所はいつも二日酔いだろ。人間には意志があるって知ってた? 今がポストモダンだって知ってた? 神は死んだんだよ、とっくに。主は自らが作り給うた人間によって殺された。そんなことがなぜ可能だったかというと、実は主が人間を作ったのではなくて人間が主を作り金儲けに利用していただけだということが1人の天才によって喝破されたから。僕たちは何かを経験するとき、それを経験していることを認識する。そのとき当然、認識しているという経験を認識している。つまり、何かを経験しているということを認識している自分を経験していることを認識していることを経験していることを認識していることを経験していることを認識していることを経験していることを認識していることを経験していることを認識していることを…、この永遠に続く認識の構造はどこへ収斂するのか? 彼はそれを思い、晩年発狂して死んだ。


2006年11月1日水曜日

 東京からMが戻っているので、夜にいつもの店でピザを齧ったりお酒を飲んだりする。
 このお店のフライドポテトは僕の知る限りもっともおいしい。


2006年11月2日木曜日

 夕方、ミシガン大学の発表した実験結果がどうしてもシミュレートできないのは測定方法を正確にトレースしていないせいだと先生に教わり、積分をもう一重プログラムに付け加えているとNから連絡があったので、切り上げて出掛ける。
 テレビで「町名復活」を唱える人が喋っていて、合理化の為に町名を番号に変えたりしてしまったけれど、それでは自分の町に愛着が湧かないし誇りも持てない、元の名前らしい名前に戻すべきだ、そこには鷹匠が多かったから鷹匠町といったような歴史も含まれていることだし、というようなことを主張していたけれど、僕は小学生のとき6年1組で、6−1という番号に愛着を持っていたし、第1とか第2とか、町名にも愛着を持っていた。単純に、番号には個性みたいなものが欠けているという主張に僕は与することができない。