style's style.

 ここのところ僕は非常にまずい文章を書いています。
 自分で読み返してみて愕然とします。
 でも、しばらくはこのままになるだろうと思います。

 ここにも既に3回、連続で「ます。」なる文末を使ってしまいました。

 別にどうでもいいことですが。

 翻訳の本で、「黄色の花の花びら」などの連続した”の”はまずい、というような、ほとんどどうでも良いような、でもフォーマルなことを読んで、漱石を読んで、その後に久々で町田康を読むとこんなことになってしまいました。

 なってしまいました、というか、むしろ進んで影響をもぎ取りに行くような態度を、僕はここのところとっていて、その所為です。
 僕は自分の語り方を変えたいと思っています。

 僕の文章の書き方というのは圧倒的な力を持つものに囲い込まれていて、とても不自由なものなのです。
 そのことには半年くらい前に気が付きました。

 明治文学のフォーマットとして、「青年期は無茶をして、最終的にはまっとうになる」というものを何回か前の記事に書きましたが、現代にもフォーマットは存在しています。代表的な現代日本文学のフォーマットは「分かる7、分からない3」というものです。3割くらいは謎を残したまま物語が終わる。全部分かってしまっては「なんだ陳腐な作品だ」といわれるし、全然分からなくても「意味が分からない」といわれて終わりだけど、7割くらいは理解できて、3割くらいは謎をおいておくとなんとなく高尚な感じになる。

 僕は新しく、別のフォーマットを見つけました。
 それは、

「結局、なにも言わない」

 というものです。
 言葉を悪くすれば、

「別にどうでもいいんじゃないの」
「仕方がない」

 というものです。
 たとえば、現代日本を代表する作家である村上春樹さんの多用するロジックは、

「Aでもあると言えるし、Aでないとも言える、結局のところどっちでもないのだ」

 という感じのものです。
 どっちでもないし、僕には分からないし、それはそのまま放っておくしかない。もしくは分からないまま適当に選ぶしかない。仕方がない。

 こういったものが何を意味しているのかというと、明らかにそれは「思考停止」です。現代日本文学は思考停止状態の推奨を行っています。
 とりあえず個人的な意見をここに書くけれど、色々ごちゃごちゃいうけれど、まあ、実のところはぶっちゃけどうでもいいんじゃないの、というのが現代の日本文学ではないかと思う。ネオニヒリズムですね。

 思考停止は楽なので、快楽を追及する生き物である人間はこれを好みます。今や村上文学は世界中で読まれている。
 先日Kが「村上春樹ってビートルズに似てるね」と言って、僕はそれに納得した。ビートルズは”let it be”で”革命なんて別にしなくていいじゃん”なのだ。だけど、音楽の細部はとても良くできている。メロディーラインも美しい。村上作品も何も主張しないけれど、でも細部は良くできている、文体は心地良い。
 そして2つとも国を超えて広がった。

 僕もこの「結局はどうでもいい」というスタイルを時々とってしまいます。
 これはある意味では現代の限界で、打破されるべきスタイルなのだと思うのです。だからもう少し違った書き方ができないものかと思っています。

 昔、稲垣足穂の作品をはじめて読んだとき、僕はそのスタイルにショックを受けました。スタイルといっても何のことはない。その散文には句読点が一切なかったのです。代わりにスペースが一つ空いている。

 体現してみれば ちょうどこのような具合です 点も丸も どこにも打ってないで どこが一文なのかというのも非常に分かりにくい はっきりいって読みにくい以外のなんでもないのですが 僕が今まで信じていた日本語の書き方というものは そこであっさりと破れました 単に点と丸がないだけのことでも 僕には大変なショックだった 僕は馬鹿だなと思った

 加えて 近頃ではインターネットのせいで 新しい文体がどんどんとできつつある 代表的なのは 一まとまりごとに改行するというスタイルで 僕の知る限りではこれは糸井重里さんがはじめた書き方だということだ

 どういう書き方か体現すると
 それはこういう短いブロックごとに
 すかさず改行を行う
 というもので、
 眺めるのが紙よりも疲れるパソコンでは
 とても有効に働くと思う。

 別に紙を節約する、
 という必要もなく、
 ただのデジタルデータを並べるだけなので
 改行だろうが何行か空けるだろうが
 なんだって自由にできてしまう。

 別にこういった細かいことをしたい訳ではないですが、自分がどのようなスタイルに依存しているのかを一度見極めてみたいと思います。
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