トロピカル。

 先日行われた柔道の世界大会で、女子が3位、男子が5位に終わったことから、実は僕は少なからぬショックを受けました。
 柔道はなんだかんだいっても日本が強いだろうと思っていたのです。ところが日本は全然勝てない。解説の、日本柔道なんとかの女の人は「私はそんなに実力の差があったとは思いません。団体戦なので、勢いのあるチームが勝つ。団体戦の怖いところですね」と言っていたけれど、そんなわけない。実力に差があるように僕には見えたし、結果も僅差ではなかった。

 時代は変わったのだ。

 日本人は手先が器用だとか、工業立国だとか、ITが進んでいるとか、アニメがすごいとか、そういうのはすでになくなりつつある。
 考えてみれば、一昔前まで日本の工業製品は高品質だと歌われたけれど、それ以前は惨憺たる有様だったわけです。映画「Back to the future」に、古い時代へ言って、タイムマシンの部品が壊れて「日本製、そんなの壊れるに決まってる」というシーンがあるけれど、当時日本は工業国でもなんでもなかったので当然の台詞だ。

 昔は工業国ではなかった。それから、工業大国になった。でももうそんなにすごくない。
 当たり前のことだ、栄枯盛衰の理。

 経済大国というのもそうだ。

 ただ、僕は日本がなんとか大国である必要はもうないと思う。
 ワークシェアリングじゃないけれど、ある国が何かに関して突出している、という時代じゃないように思えて仕方がありません。人は世界的に流動していて、当たり前だけどどこの国にも柔道の得意な人がいて、コンピュータの得意な人がいるわけです。そういうことは国家ではなく個人の問題だ。

 それに、やっぱり資本主義的な世の中というのはいくらかスローダウンする必要があると思う。競争って、別にみんながみんな好きなわけじゃないですよね。

 僕は竹中大臣が結構好きなのですが、彼が以前にテレビで、「世界をみてください、世界でやっていくのは厳しいことなんです」というようなことを言っているのをみて変な気分になった。
 竹中さんは、世界経済の中でやっていくのは大変だ、なぜなら世界経済は厳しいから、だからこういった厳しい政策もしかたがない」ということをおっしゃっていたのですが、言うまでもなく日本経済も世界経済の一員だ。
 だから、世界が厳しいから日本も厳しくするのは当然だ、と言われると、世界経済の厳しさというものに対する日本の責任というのはないのか、と問わざるを得ない。確かにこの弱肉強食みたいな世界で、日本の経済力を維持していくことは並大抵のことではないのだろう。だけど、その世界経済に加担している以上、それがネガティブな意味合いで厳しいのなら、われわれはその厳しさを和らげる努力もするべきだと思う。

 これは「社会は厳しいんだよ」と堂々と説教をする社会人に似ている。自分がその社会の厳しさに加担していることを自覚していない。世界が100人の村だったらという本があったけれど、世界が3人の人間でできていると仮定してみれば問題はよりはっきりする。

 その3人とは、社会人A、社会人B、非社会人だ。
 ある日、社会人Bは非社会人を呼んで酒を飲み始める。そして言う。

「社会は厳しいんだよ、君」

 そうすればきっと非社会人はこう思うはずだ。

「半分はお前の責任だろ」

 もちろん、世界人口を2人にして、社会人を1人、非社会人1人としてもいい。そうすれば、「全部お前の責任だろ」ということになる。
 現実には世界人口は60億もあるので、僕たち一人一人はその責任を認識しにくい。まるで他のどこかに全部の責任があるのだと錯覚してしまう。本当は各自に責任があるのだ。そして、言い換えればこれば社会を変える力が個々人にあるということでもある。