park.

 パソコンのハードディスクが壊れてしまいました。
 こういうことって本当に起こるんですね。僕は、自分は大丈夫だろうと高を括っていて、バックアップなんてものを一切取っていなかったので、研究用のプログラムや少しのデータ、それから写真や音楽、書き溜めていた小説が消えてしまいました。参りました。プログラムはすぐに書き直せるけれど、写真はちょっと大事なものもあったし、音楽に至ってはパソコンに頼りっきりだったので大打撃で、小説が消えてしまったのはかなりの惨事だとも言えます。

 別に大した小説を書いていた訳ではないのですが、5本くらいを結構長い時間かけて同時進行で書いていたので、その5つの世界を同時に失うというのはなんとも佩かないものです。中には何年も前に書き出して、ほとんど進まない内に停滞していたものもあるのですが、先日ちょうど、村上春樹さんが「最初の何行かを書いて、それを寝かしておく、何年か経つと、そこから物語が立ち上がってくる」というようなことをいってらっしゃったのを読んだので、僕の”停滞しているものを溜め込む”というやり方もまんざらではないのではないか、と思っていたところなので、タイムリーにショックなわけです。
 まあ、基本的にはどうってことないですが。

 先日、Kと話をしているときに、ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の話が上がって、僕はちょうど今、Oがそれを読んでいて、彼が読み終えたら僕がそれを借りる手筈になっている、というようなことを言っていた。
 それで、今日のお昼、大学の食堂でOと御飯を食べていて、「そういえば一昨日、Kがミラン・クンデラのこと言ってたけど、もう読み終えた?」と聞くと、まだ途中、だということで、すこしばかりその本の話を僕たちはしていた。夏休みだというのにお昼の食堂は大盛況で、僕たちの周りにも随分と人がいて、Oの隣りには、知らない、たぶん他の学科の先生(あとで尋ねると応用生物の先生だった)が座っていた。そうして、しばらくするとその先生は僕たちの話に入っていらした。ミラン・クンデラチェコの生まれで、その先生は70年代にチェコに行ったことがあるということだった。「存在の耐えられない軽さ」は70年が舞台らしいので、これは全くタイムリーなことだった。Oとその先生は上手に英語で話をすることができるけれど、僕は英語が不得意なので話に付いていくことができなかった。でも、大体は小説の中ではそんなことないけれど、70年代のチェコは実際には結構アメリカナイズされていた、というような話だった。

 それにしても、「存在の耐えられない軽さ」という邦題は天才的なセンスだ。もしかすると、僕の知る限りでは最も優れた本のタイトルかもしれない。誰が考えたんだろう。
 
 最近、ぱらぱらと柴田元幸さんの「翻訳教室」を読んでいます。
 この本は、前書きに「翻訳とか言葉の綾とかいった事柄に関心をお持ちでない方々からすれば、大半はどうでもいいことにちがいない」とある通り、実に細かい言葉の使用方法について生徒と柴田さんが議論した講義録です。
 例えば、課題文に対して、誰かが”she”を”彼女”と訳して来て、それに対して別の生徒が「でも、この文章では”she”で表される人は結構若い感じがするので、私は”彼女”ではなくて”その子”と訳した方がいいと思います」というように反論する、といったような具合です。本当にどうでもいいようなことですが、僕はこういうものが結構好きなのでぱらぱらと読んでいます。

 課題文の中に、

 At twilight you could see the seams fo the moon more clealy than the seams of the ball.

 という一文があり、この文章の訳で教室は一揉めします。文章が出てくるのは、日が暮れていく中で野球をしていたことを思い出したシーンで、文中のボールというのは野球のボールのことを指しています。

 どういう風に議論が起こるのかというと、文中の”seam=縫い目、皺、境目”というのをどう訳せば良いのか、ということが焦点となっていて、ボールの縫い目は自然だけど、月の縫い目というのは変だ、という訳です。だから、月の方は”縫い目”ではなくて、”月面の境目”とかそういう地形を表現する言葉にを使うべきなのではないか、でも、原文がseamsを二度繰り返しているのだから、その繰り返し感は出したい。
 みんながアイデアを出す中で、1人の生徒が「英語でも the seams of the moon という表現はちょっと変った表現だから、日本語に訳すときもちょっと変だけど”月の縫い目”としておけば良いのではないか」という提案をし、それが柴田先生に受け入れられる。

 結局、この部分の訳は、

 「夕暮れには、ボールの縫い目よりも月の縫い目の方がはっきりと見えた。」

 というものになる。
 変な英語には変な日本語を、普通の英語には普通の日本語を対応させるのはとても自然なことだ。

 これを読んでいて、僕は予備校に通っていたときに、英語の先生とどうしても意見が合わなかったことを思い出した。原文では比喩が使われていて、僕は「まるで十字軍みたいに」と訳したのだけど、先生は「十字軍というのは、ここでは行進のことを比喩的に表しているだけなので、十字軍なんて訳したら駄目だよ。行進って訳すように」と僕たちに教えて、授業の後、僕は文句を言いに行った。でも交渉は決裂した。

 翻訳というのは、元の文章を書いた人の思考に入り込もうとする、より近づこうとする、とてもコミュニケーションの本質に近い作業だと思う。
広告を非表示にする