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 大人になると「ご飯を食べに行く(以下、ご飯食べ)」という遊びが多くなる。「ご飯食べ」というのは、大人になって遊び方が細分化したなかで、もっとも多くの人間が参加できる遊びで、ちょうど子供たちの「おにごっこ」がこれに当たるのだと思う。別にその人の趣味だとか年齢だとかの属性を考慮することなく、単に「日本の子供」であれば「おにごっこしよう」で間違いないわけです(少なくとも僕が子供のときはそうだった)。
 これと同じで、大人も、キャンプへ行くとか、映画を見に行くとか、美術館へ行くとか、セッションをするだとか、サッカーをするとか、様々な選択肢と様々な趣味趣向があるなかで、とりあえず「ご飯食べしよう」と言えばもうそれで間違いないわけです。

 僕は大人社会における「ご飯食べ」という遊びはそういったものだと位置づけていました。つまり「おにごっこ」だと。

 だけど、ここへ来て、僕は「ご飯食べは共同体の核だ」というような感じの記述を内田樹さんの本で見ました。

 それは、家族関係の崩壊の兆しというものは多くの劇中において食卓を放棄するというシーンによって表現される、という指摘から始まる文章で、「ご飯を誰と食べるかという選択」の重要性が語られている。思春期になると家族でご飯を食べるよりも恋人や友達とご飯を食べることにポイントを置きますよね。そういったことです。普通の会議は会議室で行われるけれど、根回しだとか重要な会議は料亭で行われるし、各国の首脳も会食という形の対談を行う。

 内田先生の指摘によれば「その人とご飯を食べて、それがおいしいかどうかは、その人との相性を図るとても重要なバロメーターだ」ということで、だから僕たちはデートに誘った相手と必ず食事へ行くのだ、という結びになっていた。

 僕は妙に納得してしまった。
 そうか、ご飯というのは単なる最大公約数の遊びではなくて、汎用性の高いリトマス試験紙でもあったのか。

 今日の夕方、Oが研究室に散歩から戻ってきて、「川の中州にシカがいた」とニコニコしながら言うので、僕は驚いて、「いつ?今?まだいると思う?」と聞いた。するとOは「草を食べてたから、まだいると思う」と答え、僕は慌てて大学の隣を流れる高野川へ行った。

 すると、本当に川の中州にシカがいた。
 大きなシカと、小鹿の親子で、二匹はときどき周囲の状況を気にしながら草を食んでいた。小鹿は何を思ったのか急にジャンプして走ることがあって、その身のこなしは実にしなやかだった。

 僕はシカの親子を見ていて、果たして彼らは無事に山へ戻ることが可能なのか、と少し心配になった。川の中には結構大きな段があるし、そこをシカがジャンプして上れるようには見えなかったのだ。
 そこで僕はシカの親子の様子をしばらく眺めていた。シカを見ているのは最初僕だけだったけれど、近所を散歩していたおばさんがシカに気付いて眺めだしたので、僕はこのシカがここにいることはどれくらいイレギュラーなことなのか尋ねてみた。おばさんもシカを見たのははじめてて、でも結構前に新聞で報じられていたと教えてくれた。
 I君もやってきて、日がどんどんと落ちていく中見ていると、シカは心配していた段を軽々と上って上流のほうへ消えていった。

 僕はコンビニエンスストアによってポテトチップスを買って研究室へ戻った。
 途中、自転車に乗ったおばあさんが、ほうきを持ったおじいさんに道を尋ねていた。「そうですか、わかりました。どうもありがとうございます、助かりました」
「いえいえ、その橋を渡って左ですよ」「はい、左へ」「左へ行けばすぐです」「はいどうも」「橋を渡って左へ行けば見えますから」「はいすぐ見えるんですね、ありがとうございます」「もう、ほんとうにすぐですので」「はい、どうも」「左へ曲がってね、もう、ほんのすぐ」「はい」「そっちへいけばすぐ」...

 会話と言うのは情報交換の道具ではない。