アーニーは精一杯遠くへ、アーモンドチョコレートを投げた。

 夜の大文字山にはじめて登った。
 昼間なら登ったことはあったけれど、夜というのははじめてで、噂に聞いていた通り、そこから見る京都の街は、黒い山に囲まれたキラキラ光る大都会だった。間違いなく京都の夜景スポットナンバー1だ。

 ”ダンスパーティーを抜け出して
  湖の畔でひと休み
  ごらんよ この星空を
  背中で皆の笑い声を聞きながら
  僕たちは星の数だけキスをしよう
  今日はとても空が広いから
 ”( technical chorus boys 'counting star-lights')

 いつか見た映画のシーンを思い出す。
 でも、それが一体何の映画だったのかは思い出すことができない。それどころか、僕にはその映画が本当に存在していたのかどうかすら分からない。

 一昨日、Iさんから電話があって、Iさんはゴア・ギルのイベントのことを教えてくれた。そうかもう9月なんだ、ということにそのとき気が付いた。今年は僕はすることがあって行けない。残念なことに。参ったな。もうあれから一年経つのか。

 時間の流れを、子供の頃に比べるとずっと早く感じるようになって、僕はずっとそれが嫌だった。でも、最近ではそう悪いことでもないなと思う。子供の頃は、例えば夏休みに旅行へ連れて行ってもらうなら、その日が来るのが待ち遠しくて待ち遠しくて、1週間をまるで1月のようにも感じた。でも今ではそんなことはない。1週間というのは、だいたいこんな風に暮らせば、意外とすぐに終わってしまう物なのだ、ということを僕はもう知っている。1日は短いし、1週間もそんなに長くはないし、1ヶ月だってそうは長くない。

 僕はとても怠け者で、宿題というものをほとんどやったことがなかった。
 もちろん、夏休みの宿題だってまともにやったことはないし、中学校のときは真っ白な宿題のワークブックを始業式の朝に学校へ持って行き、それを何ページかごとにビリビリと破って友達に配り、各自のワークを写してもらって、それをセロハンテープで貼り付けて提出した。
 それでも、工作やなんかは好きだったから、夏休み最後の日にあたふたと作ることになるのだけど、あたふたといっても当時の僕にとって1日というのは永遠に近い長さを持つ物で、1日もあればなんでもできると思っていた。

 この「1日あればなんでもできる」という思考形態は長らく僕に付きまとい、大学生になってもあまり変わらなかった。僕にはみんなが提出期限の2,3日前に「まだやってない、やばい」と慌てるのが理解できなかったし、前日の夜中にならないと危機感が発生しない、という決定的な欠点があった。

 でも、さすがに近年は「1日じゃなにもできない」ということが分かってきた。何もできない、というのは大げさだけど、まともなことは何もできない。昔はなんでも一日でやろうとして失敗していたけれど、最近は「あと3年でこの小説を書き上げようとか」「来年には映画を」とか、中長期的な展望を持てるようになった。ローマは1日にして成らずって本当なんですね。

 僕はこの点に関して、たぶん大きなビハインドを持っているわけですが、長期的な展望を持つこと、遠い未来に想像力を働かせることは、きっとそれなりに大事なことなんだろうなと思う。

 冥王星のことで、ちょっとだけ世間の関心が天文学に向いて、でも「べつにそんな星のことなんて生活に関係ないし」という意見もたくさんあって、天文学なんてまるで役に立たない、みたいなことをたくさんきいたけれど、もしかしたら天文学者の中には遠い未来、僕達人類が宇宙を旅するようになったときのことを考えている人もいるんじゃないかと思う。宇宙旅行をするなら、宇宙の地図って必要ですよね。どこにブラックホールがあるとか、知らないと吸い込まれるかもしれない。それがいつやってくるのか、500年後か1000年後かしらないけれど、きっとそのとき天文学者たちの積み重ねてきた知識というものは「実用化」されるのだろうと思う。
 もちろん、もっと身近にも天文学は役に立っているし、未来のことよりも今が大事だとか、いろいろな考え方はあるけれど、僕は天文学者ってけっこう好きです。