pilot fish.

 先日、なぜかEがオレンジとトマトをくれたので、それをなんとなく冷蔵庫から取り出して食べると、僕は別にオレンジがそんなに好きではなかったはずなのにオレンジが異常においしく感じられて、以来毎日オレンジを食べています。冬にミカンを食べ始めると止まらなくなるように、オレンジを食べるという行為も止めるのが難しくて、5個くらい食べて、もう一つ、と思うのをお茶なんかで誤魔化してやめています。僕は気に入った食べ物を飽きるまで毎日食べる(もちろんそれが十分に安価であればの話ですが)、という性癖があるので、しばらくはオレンジの時代が続くのだろうと思う。今日はスーパーマーケットで2袋のオレンジを買いました。小さな冷蔵庫の中はオレンジだらけで、それはそれで良い眺めだと言えなくもありません。

 ただ、僕の最寄りのスーパーマーケットでは果物のコーナーに「このオレンジには○○という防カビ剤を使っています」といったような表示が丁寧にされていて、この○○の中にはおそろしげな農薬の名前が書かれている。だから、僕はオレンジを単純に「自然の恵みだ」と受け取ることができない。「これは本来なら既に腐っている筈のもので、遠い異国の地で栽培されて、そのあと農薬に曝されて、単に農薬の力でここまでやってこれたのだ」と思いながら、ちょっと化け物でも見るような気分でオレンジに接してしまう。ちょうどスティーブン・キングの”ペットセメタリー”に埋めたお陰で蘇ってきた生き物のように。見た目は普通だけれど、何かが違う。どこかが不自然だ。

 それで、僕はオレンジの皮を剥く前に、すこしだけ丁寧にそれを水で洗う。その農薬が一体どういったものなのかとか、水で洗うことにどれだけの意味があるのかとか、そういったことを何も知らないので半分はただの気休めですが、きっと何もしないよりはいいに違いありません。そうして、まるで気味悪がって扱ったオレンジも、一口食べればとてもおいしくて、「そうだよな、農薬だって人類の大発明の一つだもんな」と都合のいいことを思う。
 おいしいというのは偉大なことだ。

 僕が農薬のことを気にするのはひとえに、名前が恐ろしい、という理由からではありません。当然。それから、発ガン性というのも、ちょっとピンと来ていないところがあるので、実のところそんなには気にしていない。
 それでは一体何を気にしているのか、というと、それは化学物質過敏症というやつです。

 化学物質過敏症のドキュメント番組を見たとき、ものすごい危機感を感じた。
 今、間違いなく物凄いことが起きている。
 化学物質に囲まれて生きる僕ら人類は、今現在、多分ある閾値を越えようとしている。それは人類が歴史的に、系列的に受容可能だった化学物質の量のリミットだ。

 ひどい化学物質過敏症の子供は、友達が使ったシャンプーの残り香を嗅ぐだけで頭がクラクラして酷いときには昏睡状態に陥る。残留した洗濯洗剤、新建材、整髪料、たいてい何にでも反応してしまう。当たり前だけど人がいる場所にも普通の建築物のなかにも行くことができなくてまともな生活はできない。インタビューで小学生の女の子が、化学物質に曝されると「感情がおかしくなる」と言っていて、それはとてもショックな言葉だった。彼女はまだ小学生だけれど、自分の感情がおかしくなるという状態をきちんと把握していて、そんなものを理解しなくてはならない子供というのはきっと大変な生活を送っているのだろうと思う。

 化学物質過敏症の患者は「農薬の散布」のせいで発症しているケースが多い。たぶんアレルギーみたいなもので、一定量以上の化学物質に曝されると発症するのだと思う。
 それで、誰だか忘れましたが、東京の空気を色々な場所で調べた人がいて、その結果、東京のほとんどありとあらゆる場所で空気中に農薬が観測されていた。いつもどこかで誰かが薬を使っていて、それが大気に蔓延しているのだ。
 つまり、全然人事ではない。

 僕たちは酷い環境を生きている。
 都市に出て、「なんか空気悪いよね」と言いながら、でも「まあそんなものだろう。みんな吸ってるし」となんとなく平気だと思い込んでいるけれど、本当は全然平気なんかじゃないのだ。
 ずっとみんなみんな自分で自分を誤魔化してきた。子供の頃、車に乗って、車内のにおいがとても嫌だった経験、新建材のにおいがなんとなく嫌だった経験、そういうのは誰にでもあると思う。もしかしたら「すぐに慣れるから我慢しなさい」と親に言われたかもしれない、僕はそうだった。神経質な子だ、とか、気にし過ぎだ、と言われて、それでこういうものは耐えなきゃ仕方ないのだ、と思っていた。でもそんな訳ない。嫌なものは嫌なのだ。人間はまだまだ敏感な嗅覚を持っている。それが「単に臭い」のか「有害なにおい」なのかはなんとなく区別できる。たとえば電車に乗っていて、赤ん坊がウンチをしたらそれは確かに臭いかもしれないけれど、でも有害ではないと分かる。だけど新建材で建てられた新築の家に入った瞬間に感じるツンとした臭いは「これはなんか変だ、もしかしたらヤバイんじゃないだろうか」という違和感を感じると思う。
 そんな感覚をずっと無視してきた。そのつけが回ってきたのだ。嫌なことを嫌だと言いきらないで、嫌だけどみんな我慢してるし慣れよう、としてきたつけが。

 恐ろしいことに環境庁化学物質過敏症の存在を認めていない。認めていない、というのは正確ではなく、むしろ「化学物質過敏症なんてものは存在しては困るので調査もしません。そんなのあったら面倒なことになるし」というのが見え見えな態度を取っている。テレビに出てきた環境庁の人間は、

「花粉症の人でも、花粉がなくても花粉の写っているテレビを見てくしゃみが出てしまったりとかあるじゃないですか、精神的なものですよ」

 と、訳の分からないことを言っていて、農薬なんとか会の人は、

「農薬は人体に影響のないきちんと決められた分量があって、それに従って使っているのだから絶対に安全だ」

 と、頭の悪すぎることを言っていた。
 2人とも自分の利益の為に言っているのであって本心ではないと思うけれど、どちらにしてもゴミみたいな人達ですね。

 そんな中、茨城県かどこかの環境なんとかの人は、農薬の無人ヘリ散布を禁止したり、ちゃんと先手を打っていて、僕は彼をとても尊敬する。「過去の水俣病だとか公害から、何も学んでいないんじゃないですか。あの人達は」というようなことを彼は言っていた。彼は本物の科学者だ。科学者は自分達の築き上げてきた大事なものを疑うことができる。そうして自分達が築いてきたものを自分達が築いてきたもののお陰で疑うことができる、という循環運動が科学を進歩させる。

 花粉症のマスクを付けた人がたくさん見られるようになったとき、「風の谷のナウシカ、のマスクみたいだな」と僕は思った。
 化学物質過敏症の患者もマスクを付けるけれど、今度は「ナウシカみたいだな」ではなくて、もうナウシカのマスクそのものだ。

 風の谷のナウシカでは、人々の体は腐界の毒にある程度は適応していた。

「よく考えてみなさい、そんなマスクを付けたくらいで、それで本当に毒を防ぐことができると思うか。人間は腐界の毒なしには生きていくことができない体になっているのだ」

 みたいな台詞が原作の最後の方に出てくる。きれいな空気では生きていけない体になっている。
 マスクを取っても死んでしまうし、腐界をなくすことに成功しても死んでしまう。もう腐界に脅えながら、マスクをして生きていくしかない。

 化学物質過敏症はアレルギーみたいなものなので、これから症状を持つ人が増えることは間違いないと思う。人類は空気中に化学物質を放出することをやめるか、それとも患者を見殺しにするのか、治療薬を開発するのか、何かの選択を行わなくてはならないわけですが、コストがいくらかかっても、もう化学物質の拡散をやめるのが一番良いのだろうなと思う。たぶん化学物質過敏症というのは、何かのシグナルだと思うからです。