それは悪いジョークさ、キティ。

 今日は夜に五山の送り火があって、魂はあの世へ帰っていき、お盆は終わります。相変わらず京都はものすごい暑さで、昼の炎天下に往来を歩くと、照りつける太陽光線に「そうか、ここは宇宙空間の中なのだ」とSF的な認識を改めて持ってしまう。

 昨日、Mと晩御飯を食べていて、やっぱり、ご飯を食べる、という行為で生きていけるというのは不思議なことだなと、また思った。これはずっと昔から思っていることで、2003年にも同じようなことを書いているので再録しました。

 自動車がガソリンで動くとか、扇風機が電気で動くとか、そういったことはまだ納得がいくけれど、生命なんて神秘的なものが、ご飯を食べる、で維持されているなんてなんだか納得がいかない。

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 『フレッシュ』(2003年9月9日)

 ダイガクイモ、という名前であっているんだろうか(良く分からない形に切った
サツマイモに硬くて透明な砂糖のコーティングが付いたやつだ)、それがたくさ
ん入っていたプラスチックのパックを蓋が開いた状態でテーブルから落してし
まった。
 幸い、それは底面を下にしてきちんと着地したので、被害は皆無だった。

 それが一昨日の夜のことで、昨日の朝は同じく蓋の開いた納豆のパックを布
団の上に落してしまった(なぜかと言うと、それは僕が非常に横着な朝食の摂
り方をしていた所為だ)。
 幸い、それは底面を下にしてうまく着地したので、一瞬脳裏を過った最悪の
事態は免れた。

 奇跡というものが、人生において一体どれくらいの頻度で起こるものなのか
僕は知らない、でも、こんなことでも奇跡的だと思い、そして神は本当にいるの
かもしれないな、と思ったりする。

 もちろん、納豆がひっくり返らなかったからといって、それは奇跡でもなんで
もないのだろう、本当のところ。
 奇跡というのは、納豆ではなくソフトクリームを地面に落して、それがコーン
の最下部で、あたかも1984年のオリンピックロサンゼルス大会で森末慎二
が鉄棒男子選手として五輪史上初めて10点満点を叩き出したときの演技み
たいに完璧な着地を決めることをいう。

 そして、もっと奇跡的なのは、納豆を食べて生きていくことができるという事
実の方だ。
 僕らが生命を維持するために行っている最低限の行為は、物を食べ、水を
飲み、排泄し、大気を呼吸するということだけど、そんなことだけで生きていけ
るのが不思議で仕方ない。
 不思議だというか、むしろ冗談にしか思えない。

 昨日は「WOMB」という京都造形芸術大学の近くにあるカフェで晩ご飯を食
べた。住宅街の中、マイナーコードを作るために半音下げた音符みたいにず
れた感じで、特異的なのに周囲に溶け込んで存在する変なお店だ。
 天井の高い広々した空間を、打ちっぱなしのコンクリートと矩形的なイス、
テーブル、天井周囲からの間接的なトップライトで演出したミニマルなお店
で、ピザを齧りながら僕は吹き出しそうになった。

 「ピザを齧るだけで生きていけるなんて冗談に違いない」

 ときどき、何かを食べていて我に返るとそういう風に思う。

 僕らの肉体は有機物で、たとえば同じ有機物である牛肉や豚肉なんかは
常温中に放置しておけば1日であっさりと腐ってしまう。だけど、僕らの肉体
は食事、排泄、呼吸のお陰で何十年間も腐りはしないのだ。
 生肉の塊である腕や足が腐らないのは、代謝や免疫や細菌との共生の
お陰だと頭では分かるけれど、感覚としてあまりにも不可思議だ。例えば、
うららかな春の日、夏の炎天下、冷蔵庫に入れなくても、冷凍しなくても、
僕らの体は常にみずみずしい。
 昨日のピザならば、小麦粉で作った生地の上に、京野菜湯葉、チーズ
とトマトソースとバジルを乗せて焼いたものを口にするだけで、そんな簡単
なことのお陰で僕の体は腐らないし、生命は維持されるのだ。すごいという
か、やはり冗談にしか思えない。

 ピザが、僕の命の一部になるのだ。
 食べるという行為は、物質である食べ物を生命に変換する特殊な行為な
のかもしれない。
 と考えていて、とんでもない過ちに気が付いた。
 食べ物は単なる物質ではない。それは帽子とか机とか自転車みたいなも
のとは違う。食べ物は、すべて生き物の死骸で出来ている。そう思うと、食
べるというのは生き物から生き物へ命を繋ぐちょっとした儀式だと考えるべ
きだし、そんな当たり前のことに気が付かない自分はかなり痛いな、と思う。

 ピザはそもそも命あったものの集合なのだ。
 食べて命を存えるのは、冗談なんかではない。