チョコフレーク。
随分と話題になっていましたが、亀田なんとかというボクサーが世界戦を戦ったらしくて、その判定がおかしいだとかおかしくないだとか、テレビをつけるとその亀田なんとかというボクサーが映っていて、へんてこなおじさんみたいな話し方でインタビューに応えていて、噂通りの尊大な態度だったので僕も不快になった。
僕は今回の亀田さん騒動に関して特に関心があるのではないけれど、でも一つとても気になる現象があった。
それは、
「亀田の態度は気に食わないけれど、でもあれはパフォーマンスらしいからまあいいだろう」
というロジックで、亀田君の態度が気にいらない、という自分の感じたことを打ち消してしまう人達がたくさんいたことだ。僕の周囲には見事に亀田家の話題を持ち出す人がいなくて、僕はテレビやネットから入ってくる情報だけで、そのような判断をしているわけですが、でもそういった記述がとても多く見られた。
これはとても基本的なことだけど、人は人の判断を、その思想よりも行動を元に行うべきだと思う。
あの人、毎日一匹ずつ猫を殺しているらしいですけれど、でも本当はいい人なんです。
そんなのは毎日猫を殺している時点でいい人でもなんでもない。
パフォーマンスって、『行う』という意味合いの英語ですよね。本来。
パフォーマンスだろうがなんだろうが、実行された行動はその人のものだし、行った人間はその行動に関して責任を持たなければならない。ナイフで人を刺し殺して、「あれってパフォーマンスなんです。どうもどうも」なんて許されるわけもなし、今回の「態度が悪い」というのも、実際にアナウンサーだとかタレントだとか視聴者だとか、他人に向かって実行している以上は、本当はいい人だ、とかそういった思索が入り込むまでもなく「態度が悪い」と言えなければいけないんじゃないだろうか。
中学生のとき、僕の友人で比較的いじめっ子体質のKが、同じく僕の友人で、こちらは比較的いじめられっこ体質のMのことをときどき叩いていた。
「痛いなあ、なにするんだよ」
「ごめんごめん、ウソ、冗談」
「ウソって、ほんとに痛いのにどこがウソだよ」
人間の心理には恒常性バイアスというのがかかっていて、非日常性が強い、あるいは自分の想像を越えるできごとに対面したときに、それを「なにかの間違い」だとして片付けてしまう傾向がある。
たとえば、店を出て通りを歩くとナイフを持った男がいて、その男が通りがかりの女性を刺したとする。それを見たとき、人は一瞬「これは何か映画の撮影なのだ」と思い込もうとする。
実際に韓国で行われた心理学の実験があって、その実験では何も知らされていない被験者が乗っている電車の中に煙が充満し始めるのだけど、多くの被験者は煙を見て見ぬ振りをしてそのまま新聞を読んだりし続けた。煙は「なにかの都合で」出ているだけで、異常ではない、と頭のなかで片付けてしまうのだ。
昔、バス停の前を通ると、ゴミ箱から煙がモクモクと出ているのに誰もそれを気にしないで普通にバスを待っていて驚いたことがある(火は僕達が消した)。特に自分が何かをしなくても、自分はいつもどおりにしていればこの世界をサバイブしていけるのだというへんてこな思い込みが蔓延しているように思う。
同じように悪いことをする人間がいても、「この人は悪いことをするけれど、本当はいい人なのだ」と思い込んでこの世界に本当に敵となりうる人間が存在していることを認めたくないのかもしれないなと思う。
僕は今回の亀田さん騒動に関して特に関心があるのではないけれど、でも一つとても気になる現象があった。
それは、
「亀田の態度は気に食わないけれど、でもあれはパフォーマンスらしいからまあいいだろう」
というロジックで、亀田君の態度が気にいらない、という自分の感じたことを打ち消してしまう人達がたくさんいたことだ。僕の周囲には見事に亀田家の話題を持ち出す人がいなくて、僕はテレビやネットから入ってくる情報だけで、そのような判断をしているわけですが、でもそういった記述がとても多く見られた。
これはとても基本的なことだけど、人は人の判断を、その思想よりも行動を元に行うべきだと思う。
あの人、毎日一匹ずつ猫を殺しているらしいですけれど、でも本当はいい人なんです。
そんなのは毎日猫を殺している時点でいい人でもなんでもない。
パフォーマンスって、『行う』という意味合いの英語ですよね。本来。
パフォーマンスだろうがなんだろうが、実行された行動はその人のものだし、行った人間はその行動に関して責任を持たなければならない。ナイフで人を刺し殺して、「あれってパフォーマンスなんです。どうもどうも」なんて許されるわけもなし、今回の「態度が悪い」というのも、実際にアナウンサーだとかタレントだとか視聴者だとか、他人に向かって実行している以上は、本当はいい人だ、とかそういった思索が入り込むまでもなく「態度が悪い」と言えなければいけないんじゃないだろうか。
中学生のとき、僕の友人で比較的いじめっ子体質のKが、同じく僕の友人で、こちらは比較的いじめられっこ体質のMのことをときどき叩いていた。
「痛いなあ、なにするんだよ」
「ごめんごめん、ウソ、冗談」
「ウソって、ほんとに痛いのにどこがウソだよ」
人間の心理には恒常性バイアスというのがかかっていて、非日常性が強い、あるいは自分の想像を越えるできごとに対面したときに、それを「なにかの間違い」だとして片付けてしまう傾向がある。
たとえば、店を出て通りを歩くとナイフを持った男がいて、その男が通りがかりの女性を刺したとする。それを見たとき、人は一瞬「これは何か映画の撮影なのだ」と思い込もうとする。
実際に韓国で行われた心理学の実験があって、その実験では何も知らされていない被験者が乗っている電車の中に煙が充満し始めるのだけど、多くの被験者は煙を見て見ぬ振りをしてそのまま新聞を読んだりし続けた。煙は「なにかの都合で」出ているだけで、異常ではない、と頭のなかで片付けてしまうのだ。
昔、バス停の前を通ると、ゴミ箱から煙がモクモクと出ているのに誰もそれを気にしないで普通にバスを待っていて驚いたことがある(火は僕達が消した)。特に自分が何かをしなくても、自分はいつもどおりにしていればこの世界をサバイブしていけるのだというへんてこな思い込みが蔓延しているように思う。
同じように悪いことをする人間がいても、「この人は悪いことをするけれど、本当はいい人なのだ」と思い込んでこの世界に本当に敵となりうる人間が存在していることを認めたくないのかもしれないなと思う。