ヒグラシと犬、あるいは世界的なシャンプーハット。

「あそこの前、通るしかないよね」

「うん」

 畦道の先には、小さな一軒の農家があって、その庭先には大きな檻があった。檻の中には巨大なドーベルマンが2匹いて、彼らは僕達を見つけるなり大騒ぎに金網へ爪をかけ吠え立てた。

「行くっきゃない」

 ドーベルマンは遠目にも大きくて、中学2年生になったばかりの僕とKより身長が高いように見えた。おまけに、その檻はいかにも手作りで、ドーベルマンがちょっとやる気を出せば、そんなものはないに等しいのではないかと思われた。

「あの檻が壊れたら、たぶん僕らかみ殺されるよね」

「多分じゃなくて、絶対に死ぬよ」

「でも行こう」

「よし」

 僕たちは自転車に跨り直し、全速力の立ちこぎで凸凹とした畦を進んだ。ドーベルマンの檻がだんだんと迫ってきて、僕の目は2匹の犬に釘付けになる。もしも檻が壊れたら、最悪の場合この犬と戦わなくてはならない。僕はムツゴロウさんのテレビも良く見ていたし、動物の本もいくらか読んでいたけれど、この2匹のドーベルマンと瞬時に仲良くなれるなんて全然思えなかった。パチンコはいつでも使えるポケットに入っているけれど、犬が僕達に飛び掛る前に、こんな凸凹の地面で自転車を止めてカップにビー球を装填できるとは思えなかった。たぶん僕は転ぶだろうし、犬が上から乗りかかってきたらナイフで顔や喉を刺すしかないなと思った。

 『クロコダイル・ダンディ』という、オーストラリアのアボリジニに育てられた白人の男を主人公にした映画があって、僕はそのコメディタッチの映画が好きだった。その主人公の男はクリント・イーストウッドが演じていた。
 映画の中で、オーストラリアの大自然ツアーに来た人がクロコダイルダンディに「今、何時ですか?」と訊くシーンがある。イーストウッドは隣にいる人の腕時計をさっと盗み見して「3時27分ですよ」みたいに正確な時間を答えて、「どうして時計もないのにそんな正確な時間が分かるのですか?」という相手の驚嘆に、「なに、太陽の位置でわかります」と飄々と答えて自分の自然理解度の高さをアピールする。とても軽いタッチの映画。

 その中でイーストウッドは長い大きなナイフを背中に付けている。背中に斜に掛けて、ちょうど忍者の剣と反対で、下側、つまり腰の辺りからナイフが抜けるようになっている。彼はそれで敵とも戦うし、缶詰も開ける。そのナイフがあればたいていのことはできる。僕はそれに憧れて、子供らしくそのまま真似をしていた。ただ、オーストラリアの大自然の中ではなく、日本の京都の田舎町では背中にナイフをぶら下げて歩くことはできないので、Tシャツの下にナイフを隠していた。

 念のために書いておくと、僕はいたって普通の子供でした。ナイフを使って生き物を傷つけたことなんてないし、もちろん喧嘩の時にナイフを抜くなんてことは100%なかった。ただ、僕はキャンプや飯盒炊爨や探検や探偵ごっこの好きな子供だったので、ナイフという人間にとって最も基本的な道具を持ち歩かない、なんて考えることができなかった。あとマッチやライターもそうだ。マッチやライターを持ち歩いているとタバコを吸う不良中学生だと間違えられるけれど、全然そんなことはない。火も、最も基本的な道具の一つだ。たとえば雪山では火があるかないかで生死が別れる。でも、なかなかそういったことは理解してもらえなかった。一度中学生のときに警察に尋問されたことがあって、僕は自分の持ち物を説明するのにとても困った。僕は単に夢見がちな子供で、山の中で遊んでいて変な洞窟に紛れ込んでも無事に帰還できる、ということを想定した最低限の装備をいつも持ち歩いていただけだった。

 当たり前だけど、犬は檻を壊すことも、そこから出てくることもできなかった。農夫が作ったのであろうその檻は、適当な作りに見えても十分に頑丈だった。
 僕たちは農家を越えて、しばらく行くと自転車の速度を落とした。すぐに畦道は終わる。その先にはイノシシよけのフェンスがあって、フェンスを越えれば道のない山の中だ。僕とKはフェンスを登って越え、それから小川の浅瀬を歩いて山を登ることにした。小川の水はきれいに澄んでいて、それからとても冷たかった。真夏の汗をたっぷりと掻いた僕たちは、その水を飲んで、顔と頭を濡らした。
 そして、さらに先へと進む。

 だた、僕達には山を登る理由が全く何もない。
 僕たちは行き当たりばったりに行動していて、できることならなるべく深い山へ入りたい、というくらいのものだった。無目的な上に、向こう見ずで、それは本当にただの子供の遊びだった。
 川をいくらか上ると、やがて15メートルくらいの高さの崖が現れた。崖は土と石の混じったもので、まだ露出してからそんなに長い時間は経っていないようだった。

 僕たちはそこを登ってみることにした。
 見ただけで、なんとなくやばそうだな、ということは分かっていた。実際に、壁に取り付いて登り始めるとき、壁がもろいことは十分に把握できた。
 でも、僕たちは登り始めてしまった。自分たちが致命的な出来事に出くわす、という可能性は完全に排除されていた。中学2年生だった僕達にとって、自分達の死というものは遥かかなたにだけ存在しているもので、日常生活でそこに近づくことがあるなんて思いもよらなかった。

「わー」

 僕が10メートルくらいまで登ったとき、僕のすぐ先を行っていたKが足を踏み外して滑り落ちてきた。一瞬のことだ。えっ、と思う間もない。Kの体はほとんど垂直な壁を落ちてきて、僕の頭にぶつかった。支えるなんてできるはずもなく、僕はKとそのまま一緒に落ちるほかなかった。Kは足を踏み外したのではなく、何か脆い石に足をかけてしまったようだった。そして、それは一種のキーストーンでもあったのだろう。崖の上の方が崩れて、大小様々な石と土が僕達目掛けて落ちてきた。

 そのとき、僕は自分の中で緊急モードが起動したことをはっきりと感じた。
 すべてのものがスローモーションではっきりと見える。
 土はたいしたことがないけれど、石の中には僕達の頭よりもずっと大きなものもいくらか混じっていて、それにぶつかることはどうしても避けたかった。
 僕は落ちていきながら上を見上げ、落ちてくる石をはっきりとみることができて、崖を横に蹴ることでなるべく大きな石がぶつからないようにした。さらに自分が着地すべきポイントを、下を見て決めることができた。岩の上なんかに落ちてはならないし、なるべく柔らかな川砂利の上に降りたかった。石が落ちてくるので崖からは離れる必要があった。僕は落下地点を決めて、崖を強く蹴ってそこへ跳んだ。地面がゆっくりと迫ってきて、僕は思い通りの場所へ降りた。足だけでは当然体を支えることができなくて、前につんのめって両手を着く。そのまま転げて左の肩を打った。

「痛い」

 地面に降りた瞬間、世界のスピードは普通の速さに戻った。

「大丈夫?」

「うん、大丈夫。でも死ぬかと思ったよ」

 Kも岩や倒木を避けて、川砂利の上に着地していた。

「なあ、なんかさ、スローモーションになってさ」

「オレも」

「ほんとに?」

「ほんとに、こう、石とかゆっくり見えた」

「そっか。火事場のバカ力とかよく言うじゃん。あれって本当なんだね。これってたぶんそういうことでしょ」

「そうだね。それよりもケガは?」

 僕たちはお互いにパンツ一枚になって体を点検した。汚れはそのまま川で洗い流す。切り傷は少ないものの、二人とも打撲だらけだった。それから僕は右の足首を痛めていて、頭には大きなコブができていた。
 しばらく、川で打ったところを冷やしたりして、それから僕たちは疲れ果てて言葉少なに山を降りた。フェンスを越えて、畦道へ戻る。自転車に乗ってヒザを曲げてみると、思ったよりもヒザが痛いことが分かって、自転車をゆっくりと進める。
 すると、やがてまた例のドーベルマンの檻が見えてきた。

「ワン、ワオー」

「ウォンウォン」

 また彼らは檻の中から大暴れをしていた。

「まただよ」

「どうする」

「今度はもう大丈夫なんじゃないの。さっきも壊れなかったし」

「今度は壊れるかもよ」

「じゃあ、ちょっとだけ突っ走ろっか」

「そうだね。あちこち痛いけど」

「ほんとだよ。まったく、あの犬」

 僕たちは自転車に跨り直す。

「よし、行こう」

「なんか笑えて来るね」

「来る」

 ワハハハハー。
 僕とKは異常な笑い声を立てながらドーベルマンの前を通り過ぎ、そしてそれぞれの家へ帰った。帰ると案の定、「あんた、また何をしてたの?」と母親が僕の姿を眺め、僕はなるべく平静を装って、「Kと山で遊んでただけだよ」と答えた。母親が頭のコブを冷やすのに用意してくれた氷嚢をもらって、僕は自分の部屋へ行き裸になると、その氷嚢で体のあちこちを冷やした。そうして、気が付くと僕は眠っていた。

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 変な記事になった。
 先日ちらっとみたトップランナー湯川潮音さんが出ていて、

「演奏中はスローモーションなんです」

 と驚くようなことを言っていたので、僕はスローモーションについて書こうとしたのですが、なんだか回想だけでこんなに長くなったのでとりあえずこれでやめます。
 今日は台風がやってくるらしく、空ではとてもきれいに雲が遠くまで広がっている。
 僕たちはどうして空を飛べないんだ。