巨大なタマネギを君はきれいに刻んで炒めてくれるのだろうと思う。

 夜のプールサイドに寝転がって、遠い過去からやって来た星の瞬きと、空を飛び行き、刻一刻姿を変化させる雲を眺めていた。水面に目を遣ると小さな無数の波があちらこちらへ進行し減衰し、もう少しその姿を良く見ようと上体を起こせば、それに応じて僕の服にできた無数の皺が形を変化させた。僕はその膨大な計算量に圧倒されて頭がクラクラとした。

 いまさらですが、「マトリックス」という映画は特異的に優れた娯楽映画でした。僕は「マトリックス」という映画を公開時に映画館で見たのですが、ちょっとびっくりしてしまった。一緒に見に行った女の子は「ドラゴンボールか何かみたいで幼稚くさい」と憤慨していたけれど、とんでもない。大昔から哲学者をはじめとする人々が悩みに悩んでいる題材を使って、こんな娯楽作品を作るなんて偉業だとしか表現できない。しかも大ヒットした。世界中で大勢の人間がこの映画を見たのなら、それは人々の深い部分へある影響を及ぼし、膨大な数の次世代文化シードを蒔いたに違いない。

 もう何度も書いていてくどい話になりますが、僕たちは僕達の頭脳が作り出す仮想現実を現実として生きている。本当の世界には色も形も温度も音も味も何も存在していないはずだ。本当の世界は「何か」でできていて、それを僕たちは想像することすらできない。その「何か」は僕達の五感というちっぽけなフィルターを通じて音や色や形という虚構になる。

 たしかロジャー・ペンローズか誰かの本で読んだのですが、とても有名な被験者の脳に微弱な電流を流す実験があって、その実験ではある部位に電圧を印加すると被験者が過去のことをありありと思い出す。
 それは、思い出す、というような生半可なものではなくて、実際にそのときに戻ってその状況を追体験している、という状態になるらしい。そのとき被験者は台所で母親が夕飯の支度をする音も匂いも感じ取っていて、それどころか庭の向こう側から聞こえてくる自動車の音も聞き取ることができる。
 この実験をひいて、ペンローズは「実は人間の脳はそれまで経験したありとあらゆることを記憶しているのだ」という仮説を出しているけれど、これは脳にある電気信号を送ることでほとんど完璧なバーチャルリアルティを作り出すことができる可能性を示唆しているとも言える。

 マトリックスというのはまさしくそうして作られた仮想現実だ。
 人間はコンピュータからの信号で仮想現実を現実と思い込んで眠ったまま生涯を過ごす。コンピュータは膨大な数の計算をしてその仮想世界を維持する。だけど、ときどきバグが起きて、それは人間に「デジャ・ビュ」として認識される。

 高校生のとき、部屋の窓から山並みを眺めていて恐ろしいことに気が付いた。
 その日は風が強く吹いていて、山肌を覆いつくす木々は風に揺れてモンゴルかどこかの草原みたいなうねりを見せていた。僕は最初何にも考えずにそれを眺めていた。ちんけな表現だと思いながらも、小学生の時に読んだズッコケ三人組シリーズの中の何かの話で、「風が見えるみたい」という台詞が風渡る草原の描写に使われていたことを思い出して、それからそれが一体何の話だったのかを思い出そうとしていた。たぶん、ズッコケ山岳救助隊か何かそんなのだったな、ハカセの妹がこんな台詞を言ったんだよな、と思っていて、そして突然はっとした。

 当然のことだけど、僕の見ている山並みは現実の、本物の山だった。つまりどこにも誤魔化しはないはずだった。もしもこの世界を本当に物理学的な法則が支配しているのなら、それはこの山に生えている木々の全てを支配し、さらにはその葉の全ても支配しているはずで、だとすれば果てしなくごちゃごちゃと揺れ動く天文学的な数の木々や葉っぱの全ては出鱈目に動いているのではなく一定の規則に則って動いているのだ。膨大な数の計算量。

 別に誰かが計算しているわけではないし、木や葉っぱはそう動くようにできているのだから、いちいち驚くことはない、という見方ももちろん可能だ。でも、計算というのは本来そういうことなのだ、そうなるようにできているものを人間の都合が良いように組み合わせたのが計算機で、当たり前だけど、計算機もこの世界に存在している以上は物理的なものでしかない。
 今は山の木々を問題にしている。各枝、幹、葉がそれの各部分で弾性や何かを持っていて、そこに色々な角度で色々な強さの風が吹き、また風の方向も強さも葉や枝の動きに影響され、影響された風の動きは、また新たな影響を葉や枝に与える。この果てしなく複雑な相互作用の全てをシミュレートすることは不可能だ。
 だけど、僕たちは無理矢理この現実の山全体を巨大な「コンピュータ」だと呼ぶことはできる。山に風が吹いた状況をシミュレートするための巨大な計算機なのだと。別にコンピュータというのは電子回路で組まれた箱のことをいうわけではなくて、ある物理的な性質を都合よく利用したもののことをいう。だから、僕たちはDNAの反応を利用したコンピュータもマッチ箱を利用したコンピュータもアイスクリームのスティックと紐を利用したコンピュータもつくることができる。

 だから、この山の動きを「計算」だと表現することはあながち間違いではない。そして、この複雑極まりない計算は山でだけでなく、この世界のありとあらゆる場所で、ありとあらゆる瞬間に、僕達が見ようが見まいがお構いなしに続けられている。今この瞬間の世界中の人の服にできた皺の形。話す時の口の中の唾液の動き。下水に流れ込む水の動き。砂漠を舞う砂の動き。海の水の流れ。世界を回る大気の動き。
 どこにも誤魔化しはないのだろう。あらゆる瞬間に完璧な計算が行われている。マトリックスとは違って。それを思うと僕はくらくらする他ない。

 マトリックスを僕は3作とも見た。2作目と3作目はどうでもいいような話だと思っていた。でも3作目を見て少し考えを改めた。
 3作目ではたしか主人公がその超人的な力をマトリックスの中ではなくて、現実世界でも使えるようになる。悪者のロボットみたいなやつに主人公のグループが追い詰められて、もうどうにもならないというときに主人公が超能力みたいなものを使ってロボットをやっつける。
 このシーンを見た瞬間、僕はなんて酷い映画だろうかと思った。もう何でもありでご都合主義で。マトリックスの中で超能力が使える、というのはまだ納得が行く。そこはバーチャルな世界であり、その嘘っぱちに気が付いてしまえば、それらをコントロールしてなんだってできるかもしれない。でも、この場面は現実世界のことで、そんな漫画みたいなパワーで敵をやっつけるなんて冗談にもならない。

 なんだかなあ。僕は浮かない気分で映画館を出た。
 でも、しばらくすると違った可能性が思われた。
 冗談にもならないなら、あれは冗談ではなくて、つまり本気なのではないだろうか。そして、もしも本気だとしたら、そこにはどういう意図があるのだろうか。

 一応、マトリックスという映画の世界観は、僕達の生きているこの現実に則っている。現実では超能力はなしだ。主人公は仮想世界でのみ超能力を使うことができる。なのに、彼は現実世界で超能力を使えることになってしまい。しかもそれは冗談ではない。

 ならば、ここから導出される最もシンプルな答えはこれしかない。

「映画の中でマトリックスの外の”現実”とされていたものは実は現実ではない」

 マトリックスは一重ではなかった、ということだ。彼らはマトリックスの外に出た気分になっているけれど、実はまだ「一枚外側のマトリックスの中」にいるに過ぎない。もしかすると、そのもう一枚外は本当の現実かもしれないし、まだそうではなくてあと3重くらいはマトリックスがあるのかもしれない。

 僕達が住むこの世界というのは、本当はどの辺りにあるのだろうか。