フクロウ海岸で焚火を囲む。

 村上龍さんの「半島を出よ」をやっと読んだ。僕は暫くの間、小説を読まない、と何故か決めていて、そして久し振りに読んだ小説がこの小説だった。それこそ貪るように一気に上下とも読んでしまった。ちょうど読み始めた次の日、僕は朝から関西国際空港までハンガリー留学から帰国する友人を迎えに行く予定があったけれど、睡眠を削って読んで、3時間だけ眠って、空港までの電車の中でもずっと本を読んでいた。今更、僕は小説を読むのが好きなのだ、ということが分かった。良く書かれた小説は本当にこの世のものではなく、僕はあの世界へ行くことができる。そして、その世界へ行った僕の一部は永久に戻って来ることはない。代わりに、僕はその世界から何かを受け取る。そうした交換関係から生れた、この世界に対する小さな違和感を抱いて、再び現実を生きるのだ。「半島を出よ」では福岡が北朝鮮の軍隊に占領されて、日本政府はそれに太刀打ちすることができず、ある少年達のグループが北朝鮮の軍を壊滅させるのだが、僕はまだ半分その物語の中にいて、福岡が北朝鮮に占領されたというのがほとんど事実だったかのような気がしている。僕は福岡にいて、爆発で人が死ぬのを見たし、北朝鮮の兵士がどんな気持ちなのかとか、福岡市民のストックホルム症候群とか、作戦を実行する少年達がどれだけの恐怖を感じたのかとか、全部をリアルに体験した。人というのは良く書かれた物語によって経験していないことを経験することができる。

「半島を出よ」の最後のシーンが、この2,3年僕がずっと思っていたことだったので、現実と物語りの間が最終的にとてもきれいに繋がった。それは、ある意味では簡単にこの世界に戻って来ることができた、ということだし、裏を返せば、現実と物語りの境目が分かり難くなった、ということだけれど、どちらにしても今僕がここにいてこれを書いていることにはかわりない。
 その最後のシーンを引いてみようと思う。

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 イワガキは、これ何ですか、と聞こうとしたが、サトウという人が恐い顔になったのでやめた。どうして字の大きさが違うんですかとか、コリョってあの北朝鮮の軍隊のことですかとか、聞きたかったがやめた。タテノという人に、シーホークホテルのことを聞いたとき、バカ、と言われたあと、その人が自分から話そうとしないことを聞くな、と教えてもらったからだ。四人は、イシハラという人以外は、酒ではなくウーロン茶やポカリスエットを飲みながら、何も話さずにソファにただ座っている。煙草を吸うわけでもないし、音楽を聴くわけでもないし、テレビや雑誌を見ている訳でもない。世間の常識からすると、決して楽しそうに見えない。だがこれもタテノという人に教えてもらったのだが、楽しいというのは仲間と大騒ぎしたり冗談を言い合ったりすることではないらしい。大切だと思える人と、ただ時間をともに過ごすことなのだそうだ。

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 このあとに小さな段落が一つ入って、原稿用紙1650枚の長い物語は終わる。しかも、読んでいる途中で気がついたのですが、会話文のカギカッコによる改行がほとんどない。つまり、実質は2000枚クラスの長編だと言えるし、登場人物、参考文献の数も膨大で、さらに取材というバックグラウンドに裏打ちされて作品が出来上がっている。プロフェッショナルの作家というのはすごいと思った。

 上に引用した部分で、僕がずっと思っていたことというのは、楽しいというのは大騒ぎすることでも冗談を言うことでもない、ということです。たとえば僕は、お酒を飲んで大騒ぎすることが楽しいと思ったことはないし、誰かと静かに話をすることが楽しくないと思ったことはない。みんなで集まって食べたり飲んだりしているときに、大声を出して無理に盛り上げようとする人間がいると、僕は基本的にその人間を排除したがる傾向がある。僕は楽しくなくても楽しいのだと、ずっとそういう言い方をしてきた。楽しいのが楽しいとは全然思えないと。馬鹿な学生の宴会みたいなバカ騒ぎのあと、「私は本当はこういうの疲れるんです」みたいな告白をし合う人々を何度も見た。当たり前だと思う。基本的に、現代の日本では「楽しい」という概念が間違って普及している。騒ぐことが楽しいのではない。平常状態の上に盛り上がるという特別な状態があって、それが「楽しい」だと勘違いしている人々が多すぎる。馬鹿騒ぎをしている集団が楽しくて、騒いでいない集団が楽しくないわけではない。大きすぎる笑い声だとか叫び声というのは、本当に楽しくて出すこともあるが、他の人々に「私達はこんなに楽しいのだ。どうだ聞け」という意味合いで出されることも多い。人間は本当に自分が楽しいかどうかということに無頓着で、それよりも人が自分の状態を「楽しい」と見るかどうかを気にすることがある。楽しいよりも、楽しそうだと思われたいという人が結構な割合で存在する。はっきり言って、そういう努力は時間の無駄使いだ。酒の席で笑い転げていない人間に「どうしたの?詰まらないの?」とか「なにか嫌なことでもあったの?」とか聞く人はとてもおかしいし見ていてイライラする。楽しいというのは笑い転げることでもない。ときどき一気飲みで死人の出る大学生の新入生歓迎コンパと、ある大変なプロジェクトを終えた仲間が静かにただ飲んでいる、というのではどちらが本当に楽しいか考えなくても分かる。ただ、そういうことはすべて笑い声と叫び声で誤魔化される。あまりこんなことは言いたくないけれど、半分はテレビのバラ撒いた価値観だ。

 昔、花見をしたときに、僕の周囲の人々は比較的静かな人が多いので、僕らの集団は騒がなくて、でも周りにたくさんある集団はそれなりに大騒ぎで、僕はこの状況を「負けている」と捉える友達がいて、なんとなく気を揉んでいたらどうしようかな、と少しく心配をしていたのですが、あとである人に、バカ騒ぎじゃなくてとても気持ち良く過ごせた、と言ってもらえてとても嬉しかった。冗談がポンポンと噛み合うだとかそういうことではなく、単にお互いが優しくできて信頼できて、そういったものを僕は楽しいと思う。