10000。

 Nからの電話で飛び起きて、僕は大急ぎで服を着て部屋を飛び出した。まだ朝は早く、6時をいくらか回ったばかりだったけれど、それでも僕達にとっては遅刻ぎりぎりの時間だった。でも、もちろん遅刻はしなかった。カラスたちが大暴れするゴミ袋の横を、僕達は急いで駆け抜ける。

 そうして、僕の10000日目は始まった。
 僕は1979年の2月4日に生まれ、そして今日2006年6月22日はちょうど生まれてから10000日目に当たるらしい。らしい、というのは僕にその確信がないからで、T君が教えてくれた、今日が生まれてから何日目か算出してくれるサイト(http://www.110kz.com/001/count.htm)で結果を見ただけだからだ。でも、多分それは正しく組まれたプログラムだろう。それに数日違っていても、別に大したことではない。

 外では強い雨が降っていて、僕は研究室にいる。時間は午後の2時を10分ほど経過したところで、今日はまだたっぷりと残っている。しかしながら、天気予報によれば今日は西日本で大雨の恐れがあるということだ。それでも、僕は今夜ある場所へ向かうだろう。雨が奇跡的に止んでくれれば、それはそれで嬉しいけれど、考えてみれば雨に濡れるくらいなんでもないような気だってする。

 10000という数字には何も特別な意味はない。でも、だいたい30000日くらいで寿命を迎える僕達にとって、これは人生の3分の1が終わったということを意味する指標ではある。だからどうなのかは良く分からない。これまでの10000日が長かったのか短かったのかすら、僕には良く分からない。

 昔、父親に「人生というのがだいたい何秒間なのか計算してみなさい」と言われて計算したことがある。だいたい25億秒だった。72万時間。30000日。
 これも別に、だから何だ、という数字に過ぎない。だいたい30000日あることすら保障されていないし、もしも30000日あったとしても、僕達の人生というのは結局のところ時間によって測定できるものではない。それから、多分死んだらそれまでだというほど単純なものでもないんじゃないかと思う。

 僕は小学生のとき少年探偵団をやっていて、とても沢山の小道具を常に持ち歩いていた。ナイフ、ライト、防水マッチ、方位磁石、パチンコ、ビー球、手帳、ペン、針と糸、火薬、IDカード、鈎針付きのロープ、ファーストエイドキット、望遠鏡、ルーペ。他にも子供っぽい道具がいくらかあったと思うけれど、もう思い出すことができない。銃刀法は違反していたし、今だったら凶悪犯罪を起こしそうな子供だと思われたかもしれない。でも、もちろん僕はどこにでもいる普通の子供だった。ただ、探偵ごっこを本格的にしていただけだ。事件のない田舎の小さな町で、僕らは無理やり事件の断片を見つけては、そこらじゅうを探検していた。

 道具をたくさん持っている。という癖はなかなか抜けなくて、それは中学生のときにもよりシンプルではあるものの続いて、その頃僕はDIYショップで小さなツールセットを買った。よくあるペンチとナイフが一緒になったような折り畳み式のもので、たぶん800円くらいの安い物だ。
 実は、僕は今もそれをポケットに持っている。もう10年以上使い続けていることになる。

 物を長い間使い続けるということには、独特の何かがある。たぶんそれはいいことだとも思う。すでにあるものを使い続けたり、あるいは偶然手に入ったり、もらったりしたものを使い続けることは、気に入った物ばかりを手に入れて使うことよりもきれいだと思う。ブリコラージュとまではいかないでも、あるものをうまく使って生きていくことは悪いことじゃない。あらゆるインテリアを自分の好みにした部屋よりも、たとえばそこに掛けられたカレンダーは近所の酒屋でもらったやつだ、というような部屋のほうがなんとなく美しいような気がする。
 物の価値というのは、生活に思ったよりも強く密着している。たぶん、買い取った後の「ととやの茶碗」はもう美しくない。
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