散歩の途中で座り込む大きな犬。

 少しばかり忙しくて、またしても昔出していたメールマガジンの文章です。
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 録音された自分の声が自分の思っていた声と異なっている、というのは
良く知られた事実だ。
 それは普段、自分の発話を聞いているとき、実際に口から空気中に
出ていった音の他に、声帯から骨、内耳へと伝わる骨導音も一緒に聞い
ているためだ、というのも良く知られた事実で、一般常識だといっても過
言ではないくらいにこの知識は世間に浸透している。

 つまり、他の人が聞いている自分の声はいつも自分自身で聞いている声
とは違うものなのだ、と僕らは当然のことと認識して生活しているわけだ。

 ここにもうひとつ、僕らが当然のことだと思い込んでいることがある。
 それは、自分の声が録音可能である、ひいては録音装置とその再生
装置がこの世に存在しているということである。

 トーマス・アルバ・エジソンが蓄音機を発明してメリーさんの羊を吹き込ん
だのは1877年のことで、磁気テープを用いた家庭用の録音システムが
オランダのフィリップス社から発表されたのはそれから大体100年後の
1970年代のことだ。
 歴史的にみて、自分の声を録音して聞いたことのある人間がこんなに
たくさんいる世界というのは極々最近の特異的なものである。
 それ以前に生きていた人々は、誰も自分の声を録音して聞いたことが
なかったし、それがどういうことかというと、誰も自分の本当の声が普段
自分で思い込んでいるものと違っているのだと知らなかったということだ。
 毎日、誰かと会話をしているくせに、本当に文字通り誰も気が付かなか
った。ダヴィンチもニュートンパスカルも、イエスもゴータマも、シェーク
スピアも聖徳太子吉田兼好も家康も、誰一人として他人が聞いている
筈の自分の声というものを知らないで、それどころか思い込みの声と現
実の声が違っているのだということにすら気が付かないまま死んでいった
のだ。

 ちょっとぞっとする。
 人の認識能力の限界や無知は恐いものだと思う。
 鏡が世界に存在していなくて、ほっぺたにふてぶてしいヒヨコの刺青が
入っていることに気が付かないまま人生を終えたということだ。
 いや、刺青ならば誰かが「キミの顔にはヒヨコが、しかも、ふてぶてしい」
と指摘するであろうが、声の場合はそうもいかない、誰もまさか本人は
違う声を聞いているのだとは思わなかったのだから。

 蓄音機以前以後で、世界は全く変わった。
 レコード、テープ、CD、MD、MP3、ICレコーダ、録音された音と、録音
されるべき音が現代には溢れ返っている。もちろん、録音されるべき音
は大昔にも存在していたけれど、それらはすべて消え去った。
 僕らはモーツアルトの演奏を聞くことはできないが、ジミヘンがウッドストッ
クでやった演奏は間接的にであろうが兎に角聞くことが出来る。
 だけど、変わったのはそういった表面的なことだけではない。
 僕らは自分自信の声に関する認識を、蓄音機以前以後で本当に大きく
変えたのだ。
 時々、科学技術の進歩はこうやって僕らの自己認識を書き換える。たぶん
僕らはまだ自己に関する無知の海に溺れているのだろう。あの子は左の耳
たぶの後ろに小さな黒子があるのを知らなかった。僕は昨日飲み過ぎてゲロ
を吐いたが、当然胃袋までは吐き出さなかったので胃袋が本当にピンクなの
どうか知らない。左右が反転しない鏡をはじめて見たとき、私の顔はこんなで
はない、と母親は言った。

 次の、蓄音機のような発明はなんだろうか。
 最近ではDNAの解析が進んで、自分自身の大まかな設計が分かるように
なってきてしまい、自分のDNAを「知らない権利」が提案されている。
 科学技術が拡張する自己認識の末、やがて僕は自分がどこにもいないこと
を知るのかもしれない。
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