マグカップコレクション。

 前々回の記事に、

 自動的にフィルターの掃除をするエアコンというのは、内部にゴミを溜め込むだけなのではないか?

 というようなことを書いて、本当に気になったのでネットで調べてみました。

 すると、製品はそんなに間抜けなことにはなっておらず、ゴミはお掃除の度に室外に排出される、ということです。排気と一緒に。微量なので問題はないということ。掃除というのはゴミをなくすことではなくて、どこかへ移動させることだ。
 それにしても、最近のエアコンというのはすごいですね。勝手にフィルターを掃除する。部屋の空気を24時間監視して、自動的に空気清浄をする。酸素を作って部屋の酸素濃度が低下すれば補充する。エアコン内部は高温にしてカビの繁殖を防ぐ。ナショナルのサイトを見たのですが、読んでいると欲しくなってしまいます。

 随分と前に、小説を書く、という話をしていて、僕は「何か訴えたいことがあるの? 何?」という質問をされて面食らいました。僕には特に人に訴えたいことなんて何もないからです。このブログだって別に、訴えたい、ことがあって書いているわけではありません。絵を描いている友達が、政府の奨学金を獲るために「自分の絵が何を表しているのか説明しなきゃならないんだけど、べつに何も表してないから困るのよね。適当に嘘を並べておくけれど」と言っていたけれど、製作というのはおうおうにしてそういうものではないかと思います。これこれと僕はこの作品を通じて訴えたい、というならば、別に作品なんて作らなくても拡声器を持って街を歩けばいい。

 もうすぐ鴨川でインスタレーションをしようと、今準備をしているのですが、別にそれについてもコンセプトみたいなものは何もありません。もしもコンセプトを僕がぺらぺらと喋ったならば、それは単なる出まかせだと思ってください。たとえば警察が来て怒られたりしたときに、僕はなるべく学術的な言葉を使ってコンセプトを述べたりするかもしれません。つまり相手を煙にまくための言い訳と大義名分です。

 それにしても、どうして、いつ頃から僕達の行動には「理由」が必要とされるようになったのでしょう。
 一昔前に、たぶん17歳だとか少年凶悪犯罪みたいなものがメディアでフューチャーされていた頃に「どうして人を殺してはいけないのか、あなたは子供に説明できますか?」みたいな質問がもてはやされて、ワイドショーやなんかで知識人が議論をしたりしていた時期がありますが、その前に「どうして人を殺してはいけないということに理由がなくてはならないのか」ということを僕たちは疑う。僕は別に理由があって人を殺さないわけではない。

 どこかの中学校の先生が書いた本を立ち読みしたことがあるのですが、それによれば彼の実感として「昔よりも今の子供の方が、納得しないと動かない」傾向にあるそうです。たとえばサッカーを教えるときに、どうしてこのようなバーの間を素早く通り抜ける反復練習が必要なのか、ということを理屈で説明して、それを「理解」した生徒はそれを積極的にこなすが、「理解」しない生徒は真剣に取り組まない。
 僕もそうだったので良く分かりますが、授業だって「あの先生の授業は意味がない。自分で勉強したほうがいい」とか「あの先生の授業は効率が悪い」だとか、生徒が教師を判定して、そして自分の裁量で国語の授業中に数学を勉強したりするわけです。
 もちろん、ときどきそれは有効に機能する。だけど、真に高級なことは「私にはその習得方法さえ理解することができない」という方法で伝授される可能性が極めて高い。自分で勉強方法や練習方法を考えて、それで上れる高みというものは勿論たくさん存在している。でも、自分一人で考えた方法では絶対に辿り付く事のできない高みというものもこの世界には存在していて、師というのはそこへ僕達を連れて行くべく存在している。
 だから、「意味のない授業」「意味のない練習」が本当に意味のないものなのかどうかは生徒には判断すらできない、ということが起こり得るし、基本的に生徒は師を信じる以外の立場を持たない。その意味で大人というものは子供よりも上にいる。

 それで、もしも「理解、納得しないと動かない」子供が増えているならば、それはこの世界が「子供の理解、納得できるレベル」で発展を止めてしまう可能性を示唆していて、それは示唆というよりも、僕には既にこの世界で実現されてしまった現実のような気がします。相手を論理的に納得させなくてはならない場合って結構多いですよね。論理って別に大事じゃない場合でさえも。しかも「子供でも分かるような」シンプルな理屈で。シンプルじゃないことだってたくさんあるというのに。