マイクロスコープ。

 店の入り口は少しだけ開いていて、そこから痩せた白猫が外を眺めていた。引き戸を開くとすぐそこに電話をかける年をとったマスターがいて、その向こうから若い女の子が「いらっしゃいませ」と言った。

 昨日の夕方、カツサンドの有名な「コロナ」へ行ってきたのです。それはもう想像以上の素敵な店で(潔癖な方にはお勧めできませんが)、ディテールを書くと一本の短編小説になってしまいそうです。

 最近、陶芸関係の人々が身の回りに増えたので、ときどき陶芸のことを考える。

 昔、「おいしんぼ」という漫画で、主人公の山岡さんが、名前を忘れてしまったけれど偉い陶芸家に、

「陶器の模様なんて、釉薬と焼結による偶然の産物に過ぎないじゃないか」

と毒付いて、

「お前は全然わかっとらん」

と怒られていました。

 僕は何故かそのシーンを忘れることができなくて、焼き物を見るたびにその場面を思い出す。
 山岡さんが言いたかったことは、「模様は偶然の産物だから作家の力量ではない」ということで、もっと言えば「いい模様ができても、それはあなたの力ではなくて単なる偶然の産物なのだ」と言うことだと思うけれど、でも芸術というのはそういうものだ。
 作品の1から10まで全てを作家がコントロール可能な場合、そのとき出来上がったものを芸術だと呼ぶことはできない。なぜなら芸術とはその作家の領域を超えた世界を、作家自身と鑑賞者に表示する方法のことだからです。だから偶然と不自由は芸術にはなくてはならない。僕たちは芸術を行うことはできるけれど、芸術を操ることはできないのだ。

 先日、「誰だって芸術家になれる」というような言葉を耳にしました。これは何かに似ているな、と思って考えてみると、それは(これも名前を忘れてしまったのですが)大昔の社会学者か哲学者の言葉で、

「誰もがその気になれば官僚になれる平等な社会、というのは裏を返せば、官僚にならない人間には何の力もない、ということを示している」

 というようなものでした。
 誰だって芸術家になれる、というのは「芸術家でない人には何かの力がない」と考えている人の発言ですね。

 話は少し変わりますが、最近ネットにしても電車にしても、街のいたるところに繁殖している広告のコピーが嫌でしかたないです。僕たちは四六時中「私にお金を払いませんか」という暗喩に曝されて生きているわけです。なんともへんてこな社会。