道の果てでサリーはワルツを踊る。

 こんにちは。
 随分と御無沙汰してしまいました。キャンプや美術館や、色々なところに出掛けていたのです。それにここ数週間、とても重要なことがあって、僕はパソコンに向かうどころではありませんでした。

 ゴールデンウィークが明けて、街はまるで夏のように強い光を放ちます。肌の表面にはうっすらと甘酸っぱい汗の膜が張って、その匂いがすると僕は夏を想う。地下鉄に乗ると、隣りに半袖にビーチサンダルをはいた気の早い青年が座り、その明らかな姿は時間を超えて漏れ出した、次に来る夏そのものだ。都会のコンクリートを、人々が汗を流し、剥き出しの姿で歩き回る日々がもうすぐやってくる。僕はこの世界を好きだと思う。

 そうだ、友人のミサちゃんが作った『レコードのあるくらし』というミニブックが150円でWorkshop records、paralax records、ArtRockNO1で売られています。僕はとても短い話を一つだけ書きました。もしもよろしければ手に取ってみてください。言い訳ですが、甘々なのはそのような注文だったせいです。もう恥ずかしいくらい甘々に書いてしまいました。

 先日、ある人と、芸術において「製作」と「鑑賞」というのは一体なんなのか、という話をしていて、僕は芸術というものがどういう働きをしているのか、ぼんやりと分かった気がした。
 どうして僕達がそんな話をしたのかというと、それはある授業の一環で(僕がとっているわけではないですが)、そのクラスにおける多数派意見は「製作も鑑賞も実は同じことである」。
 だから、もちろん僕達の意見というのは「製作と鑑賞は異なる物である」というところから始まる。半分はただの天邪鬼で、あとの半分は「〜と〜は実は同じ」という言い回しにもううんざりだから。

 この「実は同じです」という言い方はもう本当にもっともらしくて嫌になります。「本質的に、実はAもBも同じことなのです。一見異なるように見えますが、でも、私はA,Bの等価性を発見しました」みたいに偉そうな、とても便利な言い回し。
 世界というのは隅から隅まで繋がっているので、「実は同じ」なのは当たり前のことだから、そんなことはもう言わなくていいんじゃないだろうか。音楽学校に進むか、それともイルカの調教師に弟子入りするか迷っている少女に、「人を楽しませるという意味では音楽もイルカも、本質的には同じことだから、君は好きな方をとればいい」というアドバイスをしてもあまり意味がない。それよりも、音楽とイルカはこんなに違うのだ、ということを示すほうがずっと役に立つし、そしてその方がずっと難しい。
 AとBが同じだということは、実はとても簡単なことで、当然のことで、僕達がしなくてはならないのは「A,Bは本当は同じ」だということを分かった上で「A,Bはこんなに違う」というポイントを見つけることだ。

 しかしながら、僕達の議論は「製作も鑑賞も同じ物である」というところに一旦落ち着いてしまいました。
 
 「製作」というものは、「製作手法」によって生じた束縛条件、あるいは偶然から「自分がこんなものを作りたいことを今まで自分は知らなかった」と思うような新しい物を作り出すことであり、「鑑賞」というのは「作品」を見ることによって、「自分が今見ているものを表現する言葉を私は持たない」と気付くことです。

 つまり、どちらも芸術なしには想像することすらできなかった何かに気が付く、という作業です。

 最初、僕たちは「製作」と「鑑賞」の関連を調べるために、「製作にとって鑑賞は必要か」「鑑賞にとって製作は必要か」という二つのテーゼを考えました。

 一つ目の「製作にとって鑑賞は必要か」というのは、言い換えると「鑑賞なしの製作は可能か」ということですが、ここではもっと厳密に「鑑賞者なしの製作者は存在し得るか」という表現にします。このとき鑑賞者と製作者は現実的に「別人」でなければなりません。製作者が作品完成時には鑑賞者に変化する、というのは今は無しです。
 この問いに対して、僕達は「イエス」ということができると思います。実際に誰も見ていない作品というものはこの世界にたくさん存在しているはずです。引き出しにそっとしまわれた詩だとか。少なくともそういった作品は未だ見ぬ鑑賞者(あるいは未来の自分自身)を想定して作られた物かもしれませんが、先に書いたように今はそのことは無視します。

 なぜ無視するかというと、これを無視しないでは「製作」と「鑑賞」の差異を浮き彫りにすることができないからです。存在しないけれど想定された鑑賞者、の存在をありにしてしまっては、一方がもう一方の必要条件になるかという問いかけのもとで「製作」と「鑑賞」の違いをいうことはできません。あり、の時に導かれる答えは「製作は鑑賞を現実には必要としないが、潜在的には仮定された鑑賞を必要とする。また、鑑賞は製作を現実には必要としないが、潜在的には仮定された製作を必要とする。よって両者はともに必要としあう」というもっともらしいけれど、だからなんだ、というものです。

 僕たちは今「製作」と「鑑賞」の差異を見つけたいのです。それらの等価性はもう当然で言い尽くされている。細かな違いを見つけるために、僕らはフィルターの網目を調節しなくてはなりません。高周波に乗った小さな情報を探る為に、ハイパスフィルターの閾値を細かく調節しなくてはなりません。だから今は「製作者と鑑賞者はリアルに別人でなくてはならない」という条件を付けています。なにも一般的な議論をするつもりはないのです。

 この条件下では、製作者のいない鑑賞者は存在できません。製作者がいないとあっては作品もないわけですから、鑑賞なんて無理な話ですよね。

 改めて、

「製作者は鑑賞者を必要としないが、鑑賞者は製作者と必要とする」

 これも、だからなんだよ当然じゃん、といった感じですが、僕としてはぐるっと回って同じ物から違いを拾い出したつもりだったのです。とりあえず、これは議論のワンステップにはなるだろうと思っていたのです。

 しかし、ここに来て強敵が現れました。
 「写真」です。
 写真を撮る、という行為は果たして「製作」か「鑑賞」どちらに属するものなのでしょうか。
 「製作」だとは思うのですが、力強く「製作です」と断定できないひっかかりがある。でも、「鑑賞」でもないな、というのは分かる。だけど、「鑑賞」かもしれないな、という気もする。もしも「鑑賞」でOKなら、鑑賞に製作が要らないことになるかもしれない。さらに、「作品の写真を撮る」という行為は一体何なのでしょうか。

 シャッターを切る、世にも悩ましい一瞬。