ジンジャー。

 最初に展覧会のお知らせです。

 中京区夷川通寺町西入南側の『id gallery』で、京都精華大学陶芸科4回生の女の子3人による

 "fancy" 陶3人展

 が行われています。友達がいるので僕は今日行ってきました。
 会期は30日(日)までで、時間は11:00〜19:00(最終日は18:00まで)です。
 よろしければどうぞ。

 前回、サイボーグの話を書いていて、それからコメントも頂いて思ったのですが、僕はどちらかというと、これ以上科学技術は進歩しなくてもいいなと思っています。たとえば、別にコンピュータの演算速度がこれ以上速くなって、ネットの通信速度が速くなって。そんなこと別にどうだっていいことです。

 子供の頃によく「科学技術が高度に発達した文明が核戦争で滅びた」というようなストーリーを目にして、僕は人類は別にそんなに愚かじゃない、これってやけに説教くさい話だな、と思っていたのですが、核戦争ではなくても、もっと日常レベルで不愉快なことはたくさん起こり得ます。

 例えば、カメラの小型化が目覚しいですが、この先どんどんとカメラが小型化高性能化していき、挙句の果てにそれはもう昆虫の目玉ほどのサイズになり、ロボット技術も進化して、小さな昆虫型ロボットカメラができた日には、僕たちのプライベートというものはどうなってしまうのでしょうか。夏の夜に網戸にやってくる、細々とした名前もわからないような虫がカメラを積んだロボットで、それから送られる映像を誰かが見ているとしたら、そんな世界はとても住めたものではない。

 どこでもドアだって同じことだ。夜中に寝室で眠っていて、急に赤いドアが部屋の中に現れて、そこから誰かが出てくるなんて、僕はそんな世界には住みたくない。もちろん、どこでもドアでは入れない部屋というものが開発されるのだろうけれど(そうなると”どこでも”ドアではなくなりますね)。

 科学というのは別に崇高な何かではなくて、単なる人類の欲望がとる一つの形態に過ぎない。作ってはならないものがたくさんある。

 材料をただで手に入れようとして挫折したのですが、この間までI君とフラードームを作ろうという話をしていました。フラードームというのは発明家バックミンスター・フラー宇宙船地球号、ということを言い出した人です)の考案したドームで、最小の材料で最大の容積を得る、デザインになっています。
 フラードームとフラーのことを調べているうちに、だんだんと多面体に興味が湧いてきて、先日図書館で多面体と建築の本を借りてきました。

 その本は最初が「多面体の歴史」といった感じではじまるのですが、プラトンが「世界は多面体でできている」と大胆な発言をしていて吃驚しました。
 正多面体というのはこの世界に5種類しかありません。正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体です。詳しい内容は忘れてしまいましたが、プラトンは曰く、「動きの激しい炎は4面体で、安定な地面は6面体で、水はなんとか、空気はなんとか」と世界を作る要素と正多角形を対応させていて、随分と滅茶苦茶に見えるのですが、実は地面を構成する鉱物の多くが6面体の結晶だったり、なかなか的外れとも言えないらしく、単なる結果オーライですが、プラトンの恐ろしい洞察力に感心しないわけにはいきません。2400年くらい前の人がこんなことを言っているなんて。

 サイボーグの番組を見てから、とても面倒なことですが、僕はアイデンティティについて考えざるを得ません。こういった問題を僕は一時期好みましたが、考えるのが本当に面倒なので、今ではもう面倒だとしか思えない。
 でも、考えないわけにはいかない。
 
 筒井康孝さんの小説で、体の悪くなった部分をどんどんと取り替えて長く長く生きた人が、最終的には「一本の歯」以外、全部人工のサイボーグになってしまう、という話があります。
 これを昔読んだときは、皮肉な警告的な話だと思った。筒井さんは「こんなのもう元の人間とは関係ないじゃないか」と言いたいのだと思っていました。

 今も筒井さんの本心は知りませんが、でも僕の読み方は変わりました。
 僕は、たとえ最後に残ったのが「一本の歯」でしかなくとも、それはもともとの人格を有する人間なのだと思います。こういったメタモルフォーゼを扱うとき、僕たちは各段階における微分要素に注意しなくてはならない。

 僕達の「人格の連続性」というのは勿論単なる幻想です。それは前状態(S)が、現状態(S+1)に遷移するとき、その変化量が十分に小さいときにのみ起こる誤解の連続なのです。
 考えるまでもなく、同一人物についてであっても、赤ん坊である彼と、老人である彼は全くの別人です。物質的にも性質的にも。ところが、その間を幼児、少年、青年、中年、初老、と小さな小さなパスで繋いでいくと、彼は彼のアイデンティティを保ちます。
 だから、初状態と終状態はどんなものであっても、それは大した問題ではありません。大切なのはその「小さなパス」、つまり各段階の微小な変化が「十分に微小であるか」ということだけです。

 筒井さんの小説でいうならば、最後に歯が一本すら残っていなくて、全てがロボットに置き換わっていても、その改造なり治療なりの各段階が「十分に微小」であれば、彼は彼のアイデンティティを保つはずです。
 つまり、このような「人工の部品で体を置き換える」という手段を使えば「人は永久に生きること」ができます。もちろん、誤解された自我を保ったままですが、僕達がライブで今生きているこの自我だって誤解された自我でしかないので、どっちだって同じことです。

 納得がいかない、という人は「自分の体が脳内の記憶も全て、つい0.1秒前に構成されたのではないことを証明できるか」を考えてみるといいと思います。
 もしかすると、世界というのはついさっき始まったばかりなのかもしれません。