ポテト好きのピンククィーン。

 昨日、フンデルトバッサーの建築は何かに似ているな、と思っていたのですが、荒川修作とマドリン・ギンズの「三鷹天命反転住宅」に似ているのだ、ということにさっき気付きました。

 荒川さんの建築を、実際には僕は「養老天命反転地」しか見たことがありませんが、僕は彼の作る物をあまりいいとは思いません。
 なぜならば、質感がどうにも好きになれないからです。
 僕は建築において最も重要なファクターは質感だと思っています。形でも色でも構造でも斬新さでも利便性でもなく。だから、一昔前の言葉でいう所謂「新建材」で作った家なんて、どんなに優れた図面を引いたとしても、結局のところはぺらぺらな何かに成り下がってしまう。逆に、優れた材料で組み立てられた建築はノーマルな形であっても、それなりの存在感を示すものだ。

 それで、話を前回の続きに戻しますが、この冗長なストーリーのなかで僕が一体何を言いたいのかというと(本当は僕にだって良くわからないのですが)、僕達はこの世界に絶対に理解不可能な存在があることを知っています。さらに、それに関する考察を進めることも世界中で行われています。量子力学の創成期、ニールス・ボーアは「我々の言葉を越えた世界であっても、我々の今持っている言葉で説明できなければいけない」と言いました。僕の知っているある思想家は「絵画に現れている言葉では説明できないもの、を言葉で説明」しようとなさっています。
 
 これらの行為を笑う人は、物事が本質的には矛盾した存在であることを理解していない。本質はいつだって僕達のちっぽけな論理の外側に存在している。何かを分かったと思った人は、別に何かを分かったのではなくて単に目を瞑っただけのことだ。そういった意味合いで、ソクラテス無知の知という言葉を口にしたことは卓見で、でも無知の知という言葉を口にするとき、僕たちは無知の知を知らない。無知の知という言葉をオブジェクトにしたとき、その思想は既に破壊されている。

 人類の思考というのはとてもぎりぎりのラインを走っている。それは矛盾を取り込んで無理やり前へ進もうとする吐き気を伴った蠕動に似ている。まともな食事なんてできやしない。あるのは吐き気を堪えた永遠に続く晩餐会だけで、その意味では古代ローマの金持ち達は先進的だった。

 昨日は、「単細胞の生き物が記憶能力を持つのならば、記憶が脳内の神経のネットワークの変化によるものだ、という説はどうなるのか、というような話を振って終わりましたが、この従来の説は勿論修正を迫られることになります。
 ただ、神経細胞のネットワークをモデルにしたコンピューティングの手法は随分と長い間研究されていて、それはそれで大きな成果を上げているので、神経のネットワークというのは重要な概念であることに変わりありません。

 無論、この脳の神経ネットワーク以外の仮説だって、昔から沢山存在しています。僕がもっとも驚いたのはロジャー・ペンローズらの提唱した「細胞の中の微小な管の中で量子力学的な操作が行われている」という意見です。

 量子力学は微小な世界を扱う理論で、その世界では我々は物事を確率的にのみ表すことができます。普通ではこんな変なこと考えられませんよね。今ここにパソコンは存在しています。なんてことが小さな世界では言えないのです。3分の1の確率でここにパソコンがある、みたいにしか。
 そして、それは何も僕達に小さな世界を見る有効な手段がないから、と言うわけではなくて、どうやら原理的に宇宙というものはそのようにできているようなのです。

 へんな話ですが。
 本当のところは誰にも分かりません。