ミューズの歌声を聞く為に、サンディは。

 早起きをして、朝のニュースショーを点けると、村上春樹さんがノーベル賞に王手だと報道されていた。前にも書いたけれど、僕は彼はノーベル賞を取るだろうと思っているし、彼の作品を強く好きだと思う。ただ、僕には未だに彼の作品が持っている力を”理解”することができない。僕は単にそれを好む者であり、それが一体何なのかは分からない者なのだ。
 僕は村上春樹さんの文体が好きなのだと思っていました。実際、いつかの日記にはそういったことを書きました。でも、村上春樹の文学が持つ強烈な何かは、文体にそう強く依存するものではない。彼の作品は20カ国以上で翻訳されていて、その翻訳された作品達が海外で評価されているのです。

 かつて、川端康成ノーベル文学賞を受賞したとき、「私ではなく、翻訳者がこの賞を貰うべきだ」というようなことを彼は言ったけれど、それが卓見であったのかどうかは本当は疑わしい。小説というものは言葉でできている。だから言葉はとても大きな役割を担う。でも、明らかにそれは言葉の集合という域を越えている。「物語というのは、ある意味ではこの世のものではない」という村上春樹の意見を見たとき、僕は本当に鳥肌を立てて、書物や、自分が文章を綴るという行為に恐れを成しました。図書館や書店に並んだ膨大な数の物語、それらはすべてこの世のものではないわけです。川端康成は彼の生み出した新しい世界に対して賞を授与された。

 だから、小説を書くという行為は、それがどんなに稚拙なものであれ「一つのあの世界を生み出す」という意味合いにおいてとても責任の大きな行為なのだと僕は思う。たとえ、それが誰にも読まれない小説であっても、作者は自分の作る世界とその住民達に責任を持たなくてはならない。もちろん、そこで責任を持つということはとても難しい。なぜなら、そこでは過失を犯した後に「責任を持ってそれを償う」ということはできないからだ。全ての過失は未然に防がれなくてはならない。保険なんて存在できないのだ。但し、逆に言えば、その住民達は作者に向かって賠償を要求することはできない。だから、作者はその気になれば(つまり残酷になるか馬鹿になるかということですが)、どんなに無責任な物語だって書くことができる。
 僕が無責任な作者の描いた文章を読むことはない。その世界の住人達に同情しても同情しきれないからだ。フィクションは書かれた時点でノンフィクションになる。

 実は今、僕自身が書きかけの小説でとても悩んでいるところです。
 悲劇の含まれない物語というものを書くことはできない。