ガーキンスのピクルス。

 木曜日の夜、新幹線で東京から戻ってきたAちゃんを迎えに行き、そのまま御飯を食べる。新幹線のホーム近くには、旅行者や長距離を移動する人々が沢山いて、何度そこへ行っても僕はワクワクせざるを得ない。外は雨で、僕たちは京都タワーを眺めたり、駅でずっと時間を潰すことにした。レストランに入ると、雨に降り込められた人々が多少窮屈に座っていて、でも、そこは限りなく平和な世界だった。外は大雨で、レストランの中は清潔で乾いていて、話す声と食器の音がする。

 Aちゃんの見せてくれた表参道の古い写真に、僕はびっくりして涙が出そうになった。その白黒の記録写真は信じられない美しさで、表参道というのが本来どれだけの価値をこの国で有していたのかが如実に読み取れた。安藤忠雄さんのショッピングモールも何も本当は全然いらない。建築はあの場所に相応しくないと思う。


 金曜の夜はM君のお別れ会をした。
 花屋へ行って花束をお願いすると、たくさんの予約が入っていて2時間後以降でないと出来上がらない、と言われた。春のはじめというのはそういう季節なのだ。

 僕は口先ばかりで、「これをしよう」と言っても実際にそれをすることは少ない。もともとが怠惰な性格だし、飽きっぽくてエネルギーはすぐに尽きてしまうし、時間も限られている。10個の提言をして1つを実現すればいいところのものだ。町田康の「人間の屑」に、主人公が母親から「そういうところ本当にお父さんそっくり。口からでまかせばかりぺらぺらと」と怒られるシーンがあるけれど、僕もときどきそういって母親に叱られた。
 でも、言訳だけど、10個くらいのペラペラから1つでも実現できればそれはそれでいいのではないかとも思います。本当はもっともっとたくさんのペラペラを僕は抱えているのですが、ある程度セーブしないと50のペラペラから実現はたったの1つ、ということにもなりかねないので、これでも人に話すのは控えています。

 昔、すこし年上の友人が「結局、人間って一度したいと思ったことはやがてやるんだよ。いつか」と言っていて、それは大体の線において真実に近いと思う。僕のたくさんのペラペラも、いつかは現実になる。

 先日、漫画家志望のYさんと話をしていて、物語の作り方の話になった。

「プロットって書いてる?」

「書いてるも何も、漫画だと先にネーム作るから、自然とプロット書いてることにはなるんじゃない」

 そうか、と僕は思った。
 漫画は小説とは違う。
 鳥山明さんは「ドラゴンボール」を西遊記に準えたストーリーにしようとしていたけれど、途中から話が勝手に走り始めて、あの「ドラゴンボール」という大作ができあがった。そういう意味ではドラゴンボールというのはプロットの無い漫画だし、他にもそういった進展の仕方で描かれた漫画は沢山あるのだろう。だけど、それが週刊誌の連載だとすれば、1話毎にはネームを書いて、その後に絵を入れるという作業があるのだろうし、これは部分部分で「プロット→描写」という作業をしていることになっている。

 対して、プロットを書かないタイプの小説というものは、言い方は悪いけれど「だらだらと描写をしていたら小説が一本上がっていた」という方法で書かれる。
 そして僕はこの方法で物語りを書く人間です。最初の一行を書いた後は、物語が勝手に進行していくのを見ている。もちろん、途中で行き止まりになって没になることもあるし、何日も悩んで無理矢理壁に穴を空けたりもしますが、基本的には「その世界」に入っていって、彼ら彼女らがどう振る舞うのかを眺め、それをワードプロセッサーで描写する。
 その世界に出入りするには大きな集中力が必要で、僕はあまり簡単にそこへ出入りすることはできない。入るのは比較的容易でも、出てくることは難しい。村上春樹が言ったように「物語というのは、ある意味ではこの世のものではない」。だから、僕はまとまった時間が無いと小説は書けない、と言訳をしていました。もしも、一月まとまった時間があれば、僕は一度そこへ入って行って丸一日を過ごし、出て来て眠り、次の日にスーパーマーケットに買い物に行きのんびり休み、次の日はまたその世界へ行ってくる。という仕方で長い話を書くことができますが、一日に1時間しか小説を書く時間がないとすれば、僕は毎日毎日その世界へ出たり入ったりして、しかも出て来てすぐに研究室へ行ったりアルバイトに行ったりするわけです。これは随分と強い体力の消耗を強いるものです。

 なんていいながら、もう長く長く、小説を書かないでいたので、いい加減に書くことにしました。ときどき、こまめに向こうの世界へ行ってこようと思う。
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