モロッコダンサー。

 ここのところ、引越しの手伝いやお別れ会やなんか、春の軽くセンチメンタルな行事に追われて、忙しいというか消耗していた。長い間一緒にいた人がいなくなったり、なんだかすることが沢山あって、頭がすこしクルクルする。

 僕は今イスラム教の本を読んでいるのですが、その本の初めのほうにイスラム教徒と日本人の会話があって、それは、

イスラム教徒は他の宗教の信者と結婚できるの?」

「基本的には駄目だよ。でも、ユダヤ教キリスト教ならまあいいかな。同じ一神教だし」

「そうなんだ。仏教徒は有り得ないよね?」

仏教徒は駄目だよ。っていうか仏教ってそもそも宗教じゃないでしょ。イスラム教もキリスト教ユダヤ教も、神が人間に教えたことだけど、仏教って人間が考えたことじゃん。ただの哲学だよ。ブッダって人間だし」

 宗教の定義は難しい、どこからどこまでが宗教で、どこからが宗教じゃないなんて線は引けない。というようなことがよく言われるし、僕もそう思っていたけれど、本当に信心している人にはいたって明快なものだ。

「神が人に教えたことが宗教で、それ以外は違う」

 無論、この定義にケチを付けることはとても簡単だ。
 神の定義が成されていないこと。あるいは、神の定義が「神の教えたこと」である宗教に内包されていること。

 つまり、「神が教えたことが宗教だ」という文章は、

「神が教えたことが宗教で、その神というのは宗教が教えてくれて、それでその宗教っていうのは神か教えて、それでその神というのは…」

 というクローズドなループになっている。
 一見しておかしい。

 だけど、これが「変だ」と思うのは、「変だ」と思った人の頭の中に

 (全論理空間)⊃(神の論理空間)≡(宗教の論理空間)

 という図式が最初にあるからで、信心深い人の頭の中はたぶん

 (全論理空間)≡(神の論理空間)⊃(宗教の論理空間)

 という図式になっている。
 だから、彼らは「(神の論理空間)の外側」というものを考えないし、考えることができない(冒涜になりますから)。宗教の教えるところが閉じていても全く問題ないのだ。
 対して、信心のない人間は(全論理空間)という、いわば「神を超えたもの」を指向する。

 それだけじゃない。このとき僕たちは「(全論理空間)の外側」の存在にも思いを馳せる。それは論理というもの自体をも疑うということだ。論理を超えたものは論理的に思考することができないので、僕たちが論理の外側に辿り着くことはできないかもしれない。でも、僕たちはそれを欲望する。欲望する自分の欲望も計算しながら。それを計算している自分のことも計算に入れて、それを計算している自分のことも計算に入れている自分というものも計算にいれて…。

 宗教がクローズドループならば、こっちは無限に外へと発散する繰り返しだ。
 そして僕は遠くに行ってみたいと思う。
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