サブマリン。

 昨日は昼下がりからI君と物件探しに出掛けた。まず、北山の廃虚でゴミの不法投棄場所となりつつあるビルへ行き、隣りのお店で家主の電話番号を教えてもらう。同時に、このビルは店舗用でどうやらお風呂やなんかがない、ということも分かる。たぶん広いスペースになっていて区切られた部屋もない。それから家主はどうやらこの建物を貸さないらしい。

 北山にあるもう一つの空きビルは、きれいだけど病院跡で、中を覗くとそのままスリッパなんかも残っていて気持ち悪いのでパス。

 次に、叡電の線路沿いにI君が見付けてきたビルを見に行くと、実は空き家ではなくて会社がいくつか入っていた。
 引き返すときに、途中で見付けた空き家も当たったけれど、散髪屋さんで教えてもらったある家主の立派な家を訪ねると「それについて今分かる人がいない」とあしらわれた。
 なかなかいい物件を見付けるのは難しい。いいものにはさっさと不動産屋の息がかかっているし、放置されている物件の持ち主というのはそれなりの理由があって放置をしているのだろうから難しいのは当たり前だろうけど。

 夜はYちゃんと御飯を食べたり飲んだりする。話をしながらビートルズの映像作品を立て続けに見ていると、気が付けば朝の4時になっていて引き上げる。Yちゃんの文化的教養にはまるで歯が立たないので、僕は単にいろいろなことを教えてもらって、根拠もなしに思うところを好き放題ならべたてて、ウィスキーをごくりと流し込む。「音楽はマッチョ感のないのが好きなんだ。たとえばビートルズはマッチョ感0じゃん。だからいいけれど、プレスリーはマッチョ感あるから好きじゃない」ということを話していると、カウンターに座った僕らの背後に当たるテーブルから、酔っ払って声の大きなマッチョ男がマッチョ声で店内に流れるビートルズに合わせて歌っていてげんなりする。

 それで、僕らは日本語や外国語の話をして、僕は日頃なんとなく思っていたことを会話の過程でうまく話せるようになった。

 漢字とアルファベットのことですが、「漢字は表意文字、アルファベットは表音文字」というテーゼに僕はなんとなく疑問を感じるのです。
 アルファベットって本当に表音文字なのだろうか?

 たとえば、「dog」という単語を見たとき、もしもアルファベットが単なる音のみを表していて、英語というのは「音」の言葉なのだ、という説が正しければ、英語話者はこの「dog」を一度「ドッグ」と音に変換し、その音から「犬」という意味を汲み出すことになる。だけど、僕には彼らが本当にそんなことをしてるとは思えない。「dog」という文字列の形を見たときに、瞬時に「犬」という意味が分かるはずだ。それは別にネイティブじゃなくても、僕ら日本人にだって可能なことだ。「dog」は犬、「milk」は牛乳だって、音なんか介さなくても瞬時にわかる。ここで、それは日本人だから「dog」を音ではなくて、まるで漢字のように「形」で捉えることができるのではないか、という考え方もできるけれど、たぶんそれは違うと思う。もしもそうなら、英語話者の読書スピードって随分遅い筈ですよね。実際はどうなのか知りませんが。

 だから、僕は英語も表意文字に極めて近いと思うのです。
 もちろん、アルファベット単体が音のみを表現しているというのは本当だと思う。そこには意味は付随しない。だけど、文字と言うものはアルファベットの単体ではなくてその順列組み合わせをもって形成されるものだ。一つの英単語はアルファベットというパーツを組み合わせて作られる一種の表意文字なんじゃないだろうか。偏と造りを組み合わせて漢字を作るように、単語を一つの文字に似たものと捉えてもいいんじゃないだろうか。

 漢字は意味を表し、アルファベットは音を…、という議論の仕方はさっぱりとしていて明快ですが、でも、本当は事はもっと複雑なんだと思うのです。