スコットランドの絵葉書。
先日のバレンタインデーでは、いくらかチョコレートと、あとなぜか絵をもらいました。ありがとう。
それから今日はM君の修士論文発表を見に行った。
全部終わっておめでとう。
朝日新聞のコピー、
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
をテレビで見たとき、変な気分になった。でも、何がどう変なのかよく分からなくて、その違和感を放置していたのですが、小田嶋隆さんがブログでこのコピーのとても明快な分析をされていらっしゃいました。
引用させていただくと、
___________
内容もちょっとおかしい。
「感情的で、残酷で、ときに無力」 なものを、簡単に信じて良いのか?
という問題が残る。
「それでも、信じる」ことを誰かに訴えるためには、その、信じようとする対象の良いところをきちんと列挙して、「こういう欠点があるのは承知しているけれども、一方、それにはこれこれこういった長所やこんなふうに素晴らしいところがあって、だからこそ私はそれを信じるのだよ」
というふうに、丁寧に相手を説得しないといけない。
「残酷だけど信じる」とか、「感情的だけど信じる」と、留保抜きの信頼感をただまっすぐに強調されても、聞かされる側は困惑するばかりだ。というよりも、
「それって、盲信じゃないのか?」
という疑問が生じますね。当然ですが。
「言葉」を誰かの名前に置き換えてみるとわかりやすくなるかもしれない。
「英寿さんは感情的で、残酷で、ときに無力です。それでも私は信じています、英寿さんのチカラを。駆け落ち宣言。みゆき」
これ、マズいよね(笑)。
明らかに悪い男にひっかかってる感じしませんか?
(中略)
そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。
オレの包丁が他人を傷つけたら、それは100パーセントオレの責任。
ま、包丁のチカラなんかを信じてどうするってことだよ。信じるべきは、オノレの目と頭とウデ。あとはハラを切る覚悟。それだけだろ?
______________
これを読んで僕はいくらか考えることができるようになった。
もしもこのコピーを朝日新聞が本気で採用したのなら、感情的で残酷で無力なのは「言葉」ではなくて「朝日新聞自身」だということをそれは示している。
でも、まあこれはあくまで分析にすぎない。
小田嶋さんは「言葉」を「言葉」と捕らえているけれど、自然に読めばこの「言葉」という単語は「言葉」ではなくて「言葉を私達が使うということ(とき)」を意味している。
だから、
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
というのは、普通に読めば、
「言葉で人を傷つけることもあるし、何も伝えられないときもあるけれど、私達は言葉を使う新聞社ですし、がんばってちゃんとした報道をしてみようと思っています。言葉でうまくものごとを伝えたいです。できないことではないと思うのです。正しいジャーナリズムを考え直します。朝日新聞」
という意味合いだと思う。
そんなにひどいものでもない。
それにしても、小田嶋さんのように、どこがどうへんてこなのかをうまく言葉で説明できる人はすごいと思う。僕は彼の文章を読むまで、「うーん」と思うことしかできなかった。
僕は別にテニスというスポーツが好きだというわけではありませんが、しばらく前に行われた「ヒンギス−シャラポア」戦はテレビで見ました。といっても、偶然テレビをつけるとやっていただけで、それでもヒンギスの試合でなければ僕は即座にテレビを消していたに違いありません。
(余談ですが、sportというのは、もともとdisport(気晴らしをする、はしゃぐ)で、それが変化した言葉です。でも、もうあまりスポーツが気晴らしには見えないことも多いですね)
この試合は「新旧女王対決」という売り出し方でしたが、僕は単にヒンギスのテニスが見たくてこの試合を見た。実は僕はテニスは一度もやったことがないし、ルールすら良くは知らないのですが、でもヒンギスの試合は面白いと思う。対して、シャラポアのゲームを見ても別に何も感じるところはない。ただのパワーファイターだ。
解説は松岡修造さんと伊達公子さんで、松岡さんは何度も「なんですかこのヒンギスのプレーは、ねえ、伊達さん、どうやったらあんなことができるんですか?」というようなことを興奮した口調で言っていた。「こんな選手は今のテニス界にいないんですよ」
プロフェッショナルとしてテニスをしていた彼にはきっと、僕なんかには全然見えないヒンギスの凄みが見えているに違いない。小田嶋さんみたいに。僕はただ、漠然とした面白さを彼女のプレーから感じるだけだ。
それから、最初に修士論文の発表会があったと書いたけれど、人の発表を聞いてすぐに質問ができるというのもすごいなと思う。
僕は知識や学力がなさ過ぎて、発表の内容すらよく分からないし、質問なんてしようもない。
もっと高いレベルで物事を見れるようになりたいと思う。
それから今日はM君の修士論文発表を見に行った。
全部終わっておめでとう。
朝日新聞のコピー、
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
をテレビで見たとき、変な気分になった。でも、何がどう変なのかよく分からなくて、その違和感を放置していたのですが、小田嶋隆さんがブログでこのコピーのとても明快な分析をされていらっしゃいました。
引用させていただくと、
___________
内容もちょっとおかしい。
「感情的で、残酷で、ときに無力」 なものを、簡単に信じて良いのか?
という問題が残る。
「それでも、信じる」ことを誰かに訴えるためには、その、信じようとする対象の良いところをきちんと列挙して、「こういう欠点があるのは承知しているけれども、一方、それにはこれこれこういった長所やこんなふうに素晴らしいところがあって、だからこそ私はそれを信じるのだよ」
というふうに、丁寧に相手を説得しないといけない。
「残酷だけど信じる」とか、「感情的だけど信じる」と、留保抜きの信頼感をただまっすぐに強調されても、聞かされる側は困惑するばかりだ。というよりも、
「それって、盲信じゃないのか?」
という疑問が生じますね。当然ですが。
「言葉」を誰かの名前に置き換えてみるとわかりやすくなるかもしれない。
「英寿さんは感情的で、残酷で、ときに無力です。それでも私は信じています、英寿さんのチカラを。駆け落ち宣言。みゆき」
これ、マズいよね(笑)。
明らかに悪い男にひっかかってる感じしませんか?
(中略)
そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。
オレの包丁が他人を傷つけたら、それは100パーセントオレの責任。
ま、包丁のチカラなんかを信じてどうするってことだよ。信じるべきは、オノレの目と頭とウデ。あとはハラを切る覚悟。それだけだろ?
______________
これを読んで僕はいくらか考えることができるようになった。
もしもこのコピーを朝日新聞が本気で採用したのなら、感情的で残酷で無力なのは「言葉」ではなくて「朝日新聞自身」だということをそれは示している。
でも、まあこれはあくまで分析にすぎない。
小田嶋さんは「言葉」を「言葉」と捕らえているけれど、自然に読めばこの「言葉」という単語は「言葉」ではなくて「言葉を私達が使うということ(とき)」を意味している。
だから、
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
というのは、普通に読めば、
「言葉で人を傷つけることもあるし、何も伝えられないときもあるけれど、私達は言葉を使う新聞社ですし、がんばってちゃんとした報道をしてみようと思っています。言葉でうまくものごとを伝えたいです。できないことではないと思うのです。正しいジャーナリズムを考え直します。朝日新聞」
という意味合いだと思う。
そんなにひどいものでもない。
それにしても、小田嶋さんのように、どこがどうへんてこなのかをうまく言葉で説明できる人はすごいと思う。僕は彼の文章を読むまで、「うーん」と思うことしかできなかった。
僕は別にテニスというスポーツが好きだというわけではありませんが、しばらく前に行われた「ヒンギス−シャラポア」戦はテレビで見ました。といっても、偶然テレビをつけるとやっていただけで、それでもヒンギスの試合でなければ僕は即座にテレビを消していたに違いありません。
(余談ですが、sportというのは、もともとdisport(気晴らしをする、はしゃぐ)で、それが変化した言葉です。でも、もうあまりスポーツが気晴らしには見えないことも多いですね)
この試合は「新旧女王対決」という売り出し方でしたが、僕は単にヒンギスのテニスが見たくてこの試合を見た。実は僕はテニスは一度もやったことがないし、ルールすら良くは知らないのですが、でもヒンギスの試合は面白いと思う。対して、シャラポアのゲームを見ても別に何も感じるところはない。ただのパワーファイターだ。
解説は松岡修造さんと伊達公子さんで、松岡さんは何度も「なんですかこのヒンギスのプレーは、ねえ、伊達さん、どうやったらあんなことができるんですか?」というようなことを興奮した口調で言っていた。「こんな選手は今のテニス界にいないんですよ」
プロフェッショナルとしてテニスをしていた彼にはきっと、僕なんかには全然見えないヒンギスの凄みが見えているに違いない。小田嶋さんみたいに。僕はただ、漠然とした面白さを彼女のプレーから感じるだけだ。
それから、最初に修士論文の発表会があったと書いたけれど、人の発表を聞いてすぐに質問ができるというのもすごいなと思う。
僕は知識や学力がなさ過ぎて、発表の内容すらよく分からないし、質問なんてしようもない。
もっと高いレベルで物事を見れるようになりたいと思う。