ジョーイ、サボテンにミルクをこぼす。
ユニバーサルデザインという言葉を始めて聞いたとき、僕は正直なところ「なにをいまさら」と思った。
「万人が使い易い」。デザインはもともとそういうものを包含している。
でも、実際にはこれはとても難しいことだ。たとえば身長180センチの大人と、身長130センチの子供の両方が使い易い、なんていうのは結構な難問に違いない。
それから、使い易さとカッコ良さは両立しないことがある。
ユニバーサルデザインという言葉の出始めた頃、まだバリアフリーという言葉の方が有名だった頃に、デザイン界では「英語表示を日本語表示に改める」というのが少しだけ流行りました。ラジカセとかの「PLAY」ボタンを「再生」とか「さいせい」とか、それも見易い大きなフォントで書く訳です。ところがこれはやっぱりなんかカッコ悪いのではないかということで、あっさりとそんなブームは終わってしまった。僕は終わってくれて良かったと思う。それに、ユニバーサルということを考えれば、はっきり言って日本語で書くよりも英語で書いてある方がよりユニバーサルですよね。
今思い出したので書くと、先日のイベントで売られていたTシャツは「フリーサイズ」でした。
巷でも良く見掛けるのですが、この「フリーサイズ」って何ですか?
別にTシャツが着る人の体に合わせてサイズを変えてくれるわけじゃないですよね。もしくはアジャスターが付いていて大きさが変えられるとか。飽くまでサイズは固定なわけで、こんなものはフリーでもなんでもないと僕は思うのです。単にサイズが一個しかないだけだ。一個しかサイズがないのに、Lの人にもMの人にもSの人にも売る為に「フリーサイズ」なんてへんてこな言葉が生まれたのだと思う。インチキですよね。
閑話休題。
僕はユニバーサルデザインという言葉があまりピンとこなかったのですが、「ユニバーサルファッション」という言葉には少し共感しました。
「ユニバーサルファッション」というのもなんだか胡散臭い言葉で、僕は図書館を歩いていてたまたま「ユニバーサルファッション」という本を見付けて、またいかがわしい本だなあ、と思いながらパラパラ捲って、そして共感しました。
ファッションというのはデザインの中の一つだとも考えられるので、ユニバーサルファッションというと、まるでユニバーサルデザインの中の一つかのような錯覚がしますが、思想は全然違います。というか、ファッションというのは厳密には服のデザインのことではなくて「体のデザイン」のことなので、デザインとファッションというのは似ていても性格が全然違います。デザインは「人間が使うもの」についての考え方で、ファッションは「人間自身」についての考え方です。
もっと言ってしまうと、服や化粧というのは体に着るものではなくて「体そのもの」です。
ユニバーサルデザインというのは「細くて若いだけがきれいじゃない。いろいろなきれいがある」という基本的な姿勢を持っているのですが、コム・デ・ギャルソンの川久保玲のスタンスなんかはこれに近いと思います。ファッションデザイナーにも2種類の人間がいて、一つは「今ある美しさをさらに進化させる」デザイナー、もう一つは「新しい美しさを作るデザイナー」です。このユニバーサルファッションというのは後者のスタンスをとります。パリコレに出ている両足のないモデルやなんかがこの運動の象徴とも言えます。身長とかスタイルとか歩き方とか、もうそんなことはどうだっていい。それが美しいって誰が決めたのさ。その美しさって何。ニーチェは「道徳ってそもそも必要なのか? 何あれ?」ということを言いましたが、このユニバーサルファッションは人の容姿の美しさについてかなりラディカルな問いを発します。
映画「スターウォーズ」をはじめて見たとき、僕はまだ子供で、そして感動しました。何に感動したのかというと、それはハン・ソロとルーク・スカイウォーカーの友情や彼らの成長ではなく、訳の分からない色々な形をした宇宙人が同じ酒場でお酒を飲んで、一つのチームを組んで戦っているという状況にです。すごく自由な感じがした。
昔の日記にも書いたけれど、レイブに行ったとき、色々な勝手な格好をした人達が思い思いに踊っていて、僕はそれにとても感動した。
やっぱり、とても自由な感じがした。
服は僕らの体だから、それはただの「物」ではないから、そこに宿る社会性はとても強力です。
日本では江戸時代、職業や身分によって格好が決まっていましたが、今もそれにほとんど同じです。ちょっと変った格好をして歩いていると後ろ指をさされて笑いの的になります。笑う人は大抵「自分がマジョリティーの中にいることを確信していて、それで安心してマイノリティーを攻撃する」という人です。ちょっと酷いですが、ニーチェの言葉を借りれば畜群です。
昔、ブルーハーツの真島昌利はこんな歌詞を書いた。
僕の着てる服が気にいらないんだろ?
僕のやりたいことが気にいらないんだろ?
僕のしゃべり方が気にいらないんだろ?
ほんとは僕のことが羨ましいんだろ?
仮装パーティーに行けば分かることだけど、本当はみんなもっと自由に色々な格好がしたいのだと思う。
笑う人だって、本当は羨ましいんじゃないだろうか。
もうこんなせこせこした世界はうんざりだ。
「万人が使い易い」。デザインはもともとそういうものを包含している。
でも、実際にはこれはとても難しいことだ。たとえば身長180センチの大人と、身長130センチの子供の両方が使い易い、なんていうのは結構な難問に違いない。
それから、使い易さとカッコ良さは両立しないことがある。
ユニバーサルデザインという言葉の出始めた頃、まだバリアフリーという言葉の方が有名だった頃に、デザイン界では「英語表示を日本語表示に改める」というのが少しだけ流行りました。ラジカセとかの「PLAY」ボタンを「再生」とか「さいせい」とか、それも見易い大きなフォントで書く訳です。ところがこれはやっぱりなんかカッコ悪いのではないかということで、あっさりとそんなブームは終わってしまった。僕は終わってくれて良かったと思う。それに、ユニバーサルということを考えれば、はっきり言って日本語で書くよりも英語で書いてある方がよりユニバーサルですよね。
今思い出したので書くと、先日のイベントで売られていたTシャツは「フリーサイズ」でした。
巷でも良く見掛けるのですが、この「フリーサイズ」って何ですか?
別にTシャツが着る人の体に合わせてサイズを変えてくれるわけじゃないですよね。もしくはアジャスターが付いていて大きさが変えられるとか。飽くまでサイズは固定なわけで、こんなものはフリーでもなんでもないと僕は思うのです。単にサイズが一個しかないだけだ。一個しかサイズがないのに、Lの人にもMの人にもSの人にも売る為に「フリーサイズ」なんてへんてこな言葉が生まれたのだと思う。インチキですよね。
閑話休題。
僕はユニバーサルデザインという言葉があまりピンとこなかったのですが、「ユニバーサルファッション」という言葉には少し共感しました。
「ユニバーサルファッション」というのもなんだか胡散臭い言葉で、僕は図書館を歩いていてたまたま「ユニバーサルファッション」という本を見付けて、またいかがわしい本だなあ、と思いながらパラパラ捲って、そして共感しました。
ファッションというのはデザインの中の一つだとも考えられるので、ユニバーサルファッションというと、まるでユニバーサルデザインの中の一つかのような錯覚がしますが、思想は全然違います。というか、ファッションというのは厳密には服のデザインのことではなくて「体のデザイン」のことなので、デザインとファッションというのは似ていても性格が全然違います。デザインは「人間が使うもの」についての考え方で、ファッションは「人間自身」についての考え方です。
もっと言ってしまうと、服や化粧というのは体に着るものではなくて「体そのもの」です。
ユニバーサルデザインというのは「細くて若いだけがきれいじゃない。いろいろなきれいがある」という基本的な姿勢を持っているのですが、コム・デ・ギャルソンの川久保玲のスタンスなんかはこれに近いと思います。ファッションデザイナーにも2種類の人間がいて、一つは「今ある美しさをさらに進化させる」デザイナー、もう一つは「新しい美しさを作るデザイナー」です。このユニバーサルファッションというのは後者のスタンスをとります。パリコレに出ている両足のないモデルやなんかがこの運動の象徴とも言えます。身長とかスタイルとか歩き方とか、もうそんなことはどうだっていい。それが美しいって誰が決めたのさ。その美しさって何。ニーチェは「道徳ってそもそも必要なのか? 何あれ?」ということを言いましたが、このユニバーサルファッションは人の容姿の美しさについてかなりラディカルな問いを発します。
映画「スターウォーズ」をはじめて見たとき、僕はまだ子供で、そして感動しました。何に感動したのかというと、それはハン・ソロとルーク・スカイウォーカーの友情や彼らの成長ではなく、訳の分からない色々な形をした宇宙人が同じ酒場でお酒を飲んで、一つのチームを組んで戦っているという状況にです。すごく自由な感じがした。
昔の日記にも書いたけれど、レイブに行ったとき、色々な勝手な格好をした人達が思い思いに踊っていて、僕はそれにとても感動した。
やっぱり、とても自由な感じがした。
服は僕らの体だから、それはただの「物」ではないから、そこに宿る社会性はとても強力です。
日本では江戸時代、職業や身分によって格好が決まっていましたが、今もそれにほとんど同じです。ちょっと変った格好をして歩いていると後ろ指をさされて笑いの的になります。笑う人は大抵「自分がマジョリティーの中にいることを確信していて、それで安心してマイノリティーを攻撃する」という人です。ちょっと酷いですが、ニーチェの言葉を借りれば畜群です。
昔、ブルーハーツの真島昌利はこんな歌詞を書いた。
僕の着てる服が気にいらないんだろ?
僕のやりたいことが気にいらないんだろ?
僕のしゃべり方が気にいらないんだろ?
ほんとは僕のことが羨ましいんだろ?
仮装パーティーに行けば分かることだけど、本当はみんなもっと自由に色々な格好がしたいのだと思う。
笑う人だって、本当は羨ましいんじゃないだろうか。
もうこんなせこせこした世界はうんざりだ。