マーブルガールはいつも黙っている。

 昨日は熱があって学校を休んだのですが、アルバイトは休むことができないので、僕は大嫌いなスーツの上からクルクルとマフラーを巻いて電車に乗って出掛け、忙しく働いて、祝日前の所為か人のやけに多い終電で帰ってきた。こういうとき自分が重大にスポイルされているような気分になる。アルバイトは言わば最下層の労働者なので、上の層の人間に搾取されるのは当たり前だけど。

 アルバイトなんて本当はするもんじゃない。自分の大安売りだから。
 最近はニートの問題で少し影になっているけれど、ニートの前はフリーターの増加が社会的に問題だとされていた。あれは税金だとかそういった財政問題に終始する議論ではなく、自分を大安売りしている人間が異常に沢山いて、その大安売り商品を買った人間、つまり雇用者がボロ儲けしているという2極分化の話です。フリーターが増えるということは、ボロ儲けの社長がうまくやっているということでもある。
 正社員になっても搾取ばかりされている人もたくさんいるけれど。
 それにしても、病気になってもおちおち休めない社会というのは異常だと思う。風邪薬の宣伝とか「明日は大事な会議なのに熱が。○○飲んで」ってやってますが、あんなコマーシャルが成立するなんて実に不幸で不親切な世の中だとしか言いようがない。「明日の会議で発表のタナカさん、なんか風邪らしいから、会議は延期しましょう。代わりに明日、どうせみんな集まる予定だったんだから、パーティーでもしない? タナカさんには悪いけど。鍋とかどうですかね?」という世の中にならないかな。走り続けないと死んでしまうというこの資本主義競争社会がどうにか壊れない物かと、たぶんとても沢山の人が思っている。競争の好きな人ってそんなにたくさんいないんじゃないだろうか。

 僕は村上春樹さんという作家が好きです。
 でも、彼の作品の何が好きなのかが自分でも全然分かりません。日本でも海外でもとても売れていて、ノーベル文学賞だってありそうな勢いだけど、僕は彼の文学の一体何がそんなに優れているのか良く分からないのです。

 そこで少しだけ考えてみました。

 まず、僕は彼の丁寧な文体が好きです。好きだとか嫌いだという次元を超えて、僕は村上春樹さんの文体を真似するならいくらでも長く文章を綴ることができる。つまり、とてもしっくり来るということです。これは日本で彼の書籍がとても多く読まれている要因の一つだと思う。僕たちは、実際に自分で文章を書こうが書くまいが、自分なりの語る方法を必要としていて、村上春樹の語りから学んだ語りによって語られる自分の人生を心地良いと思うのではないだろうか。人生とは事実のことではなくて語り方でいくらでも変化するものだから、語り方を選ぶというのはとても重要なことだ。
 彼の小説においては、基本的に主人公は資本主義社会の競争から降りています。仕事を辞めて、毎日図書館に通ったり、変な事件に巻き込まれたり。仕事を辞めるけれど、でもとても健康的で規則正しく、清潔でゆったりとした生活。そういった観点で切り取る語り方を、僕たちは欲しているのかもしれない。

 それから、僕は春樹さんの本を読んでいて「結局彼はどうこう言わないな」と思うことが多い。

「Aである。でもAでないとも言える。結局のところどちらでもないのだ」

 という記述の仕方が他の作家よりも多いのではないかと思う。
 基本的に小説という物は、1次元のものなので、前から後ろに一本の線に沿って流れて行くし、そうすると構成としては大体が「正→反→合」という弁証法的なものになる。村上春樹の「Aである。でもAでないとも言える。結局のところどちらでもないのだ」という書き方は正しく弁証法だ。
 そして、「合」のところで、彼は結論をぽんと投げ出してしまう。結局、今の時点の僕には分からないと言ってしまう。世界は複雑で分からないことばかりなのに、人類は結論を求めて急ぐけれど、分からないことは分からないのだ。苦し紛れに先人達は多くの答えを提出してきた。でも、分からないという答えよりも正しい答えはない場合が多くて、分からないと言う答え方は最強なのだ。

 また、この分からないというのは只の「分からない」ではない。
 その前に出されたAとnotAの存在を僕たちは無視できない。Aというテーゼを提出し、notAというアンチテーゼでそれをぱっと引っ込めると、そこには何もなくなるけれど、でも状態は以前とは変っている。そこにはAはなくなったけれど、「Aという形の穴」が残されている。大事なものはAではなくて、この「Aという形の穴」の方なのだ。春樹さんは「正→反」で僕たちの頭か心の中に「Aという形の穴」を開けて、そしてこの穴をどうやって処理すればいいのか考えていると「→合」の部分で「それは誰にも分からないことなんだ」と語り掛けてくる。そうして、僕たちはただその”穴”を見つめる。人間にはその穴を見つめて、隣りの人と「穴があるね」「うん、穴だね」と肩を叩き合うことしかできない。

 と、いろいろ書き連ねてみましたが、結局のところ僕は彼の丁寧な感じが好きなのだと思います。近現代の日本文学は、あまりに過激で退廃的なものが多かったし、不健康で暗いのがまるで文学なのだ、と言わんばかりで、そういうのにみんな嫌気が注していたのだと思う。だって小説というのは生き方のお手本を提示するものなのに、どこにも健康なものがなければ嫌になるのは当然ですよね。村上春樹さん自身が「それまでの文壇にお手本としたい人なんて一人もいないし、彼らが深酒をして夜型の生活をするのなら、あえて僕は逆の早寝早起きの生活をしようと思った」というようなことを書いていらっしゃいました。