銀河の果てで大笑い。

 火祭の次の日、Cちゃんと近代美術館の堂本尚朗展に行ったのですが、僕たちが入り口の前を通ってチケットを買いに行こうとすると、ちょうど美術館から出ていらした御婦人があって、「今から見に入るのだったら、私、招待券が余ってるから良かったら使って」とチケットを一枚貰った。それをCちゃん用にして、あとは僕の分だけ買ったのですが、学生450円の筈が250円に値下がりしていた。人気がないのか何なのか良く分からないけれど、とにかく僕たちは想像以上に安上がりで美術館へ入場することができた。

 高校生のころ、僕はときどき小林秀雄を読んだ。彼は何かの本の中で、誰かの著作をたくさん読み込めば、自ずからその著者の人間というものが見えてくる、ということを書いていて、当時の僕にはそれは良く理解できなかった。物語を読むときはあくまで「物語」を読んでいて、僕にはその作者なんて全然見えやしなかった。

 建築史の講義で岸先生は、「建築家になると何が嬉しいって、それは大昔の建築家と対話できることですよ、たとえば古代ギリシアの建築を見に行けば、僕は当時の建築家が、それを作った連中が何を考えていたのか良く分かる。何百年、何千年前の人間の思考がそのまま分かる。これってとっても面白いことだよ」と昔おっしゃっていた。そういうものかな、と僕はぼんやり思っていた。

 だけど、最近は作品の裏にいる人間を見ることが少しづつ可能になっているように思う。
 堂本尚朗という人は、日本画から西洋画へ移行するのとパラレルに、具象から抽象へも移行された方なのですが、今回の堂本展は彼の初期から今年の作品まで、時代順に丁寧に配置されていて、僕は絵画ではなく彼の生き方とその変遷を眺めているようだった。長い人生だった。会場を一周すると、また最初の部屋に戻るようになっているので、最新作を見ていると嫌でも隣の部屋に置かれている初期の作品が目に入る。それはもう全く別の人間が描いた作品だ。
 僕は作品そのものよりも、それを作る作家の思考を思考するという方法で作品を見るようになった。コミュニケーション。

 先日、本屋に立ち寄ると、声の大きな御婦人が店員を2人も引き連れて天体の本を探していた。彼女は、こういった感じの本が欲しいとはいうのだが、特定の書籍を指定して探しているわけではないので、店員の方もすこし当惑気味だった。本屋で働いているからといって売っている本の全てに目を通しているわけじゃない。
 やがて、店員の「それではこの本ではいかがでしょう?」と差し出した本に満足したらしく、彼女はその本を買うと言った。それから「一人で寂しいから、夜にぱらぱらきれいな星の写真でも見て気を紛らわそうと思って」と言った。僕はてっきり、彼女が天体の本を買うのはきっと親類の子供や孫にプレゼントする為だろうと思い込んでいたので、ひどく吃驚して、それから悲しくなった。彼女はとても元気であつかましい様子だったけれど、寂しさを紛らわす為に、自分の為にその本を買うのだ。なぜ寂しさを紛らわせる手段に天体の写真がついた本を選んだのか、僕には計ることができない。でも勿論彼女には彼女なりの理由があるのだ。人というのは色々なものを抱え込んで生きている。