マシュマロの匂いには太刀打ちできない。

 新古今の時代の天才歌人藤原定家、彼にはこんな歌がある。

 「花の香の かすめる月にあくがれて 夢もさだかに見えぬ頃かな」

 梅の花の香りが月も霞むくらいに強くて、だから夜空に見えるはずの夢も今夜は見えない。つまり、梅の匂いがとても強くて、今夜は夢を見ないだろう、という歌です。
 ここでは「香」をまるで目に見えるもののように喩えて、それで月が霞む、と言っています。僕たちは、文学的な感覚からも勿論このメタファーを理解することができます。だけど、もしかしたら、今よりも五感を活発に働かせたであろう時代の人間にとって、このメタファーというのはもっとリアルなものだったのかもしれないと僕は思う。

 たとえば右脳の視覚野が壊れてしまった人は視界の左半分が見えなくなります。
 そこで、見えている右半分の視界に何かのマーカーを出して、そこを指して下さい、というと、見えているのでもちろんマーカーを指します。次に見えていない左半分にマーカーを出して「指して下さい」というと、被験者は「見えないので指せません」と答えます。

 ここまでは特に不思議でも何でもない、見えるなら指せる、見えないなら指せない、当たり前のことだ。でも、こういう指示を被験者に与えると不思議なことが起こります。「じゃあ、見えなくても、わからなくてもいいので、適当に勘で指してみて下さい」。
 そうして”勘”で指された筈のものがマーカーの位置に見事に一致するのだという。こういうのを盲視と呼ぶそうです。つまり、僕たちの意識には上らないところでなんらかの情報のやり取りがあって、見えていないのに見えているというおかしなことが人間には起こり得るわけです。

 人間には五感があって、僕たちはその五つの感覚を全く次元のことなるものとして捉えています。目で見ている世界と、音の世界って全く別物ですよね。でも、脳の中で起きている現象に注目すると、視覚を形成するものも、聴覚を形成するものも、結局は同じで電気信号の伝達や化学物質のやり取りであって、その現象発生要因においては”視覚”も”聴覚”も同列に扱うことのできるものです。むしろ、同じ電気信号のやりとりという方法で生み出したのに”視覚”と”聴覚”でこれだけのハッキリとした差異が生れているということのほうが驚異です。

 なぜ、視覚と聴覚は同じような方法で作っているのにこんなにも違うものとして認識されるのか、というのは脳科学の抱える大きな問題でもあるのですが、僕は定家のこの歌を読んだ時に、もちろん僕らは視覚と聴覚をまったく違うものとして感じているけれど、それは事実だけど、でも深層では視覚も聴覚も一緒くたにした、もっと根源的な「センス」というものが存在しているのではないか、と思った。だから、定家は嗅覚と視覚をダブらせた表現をしたし、それは彼にとっては比較的リアルなことだったんじゃないか、と思った。