ゾウ。

 先日、Uと話をしていると、フランスのなんとかという人が日本を視察して「日本って終わってますね」と言った、という話からニートとインドの僧侶の話になった。
 インドという国に一体どれだけの数の修行僧がいるのか知らないけれど、昔10万人というような数字を聞いたことがある(Uもそう言っていた)。それで、僕が思うに彼らっていわゆるニートなわけです。よその国から亡命してきて僧になって生き延びるとか、それってやり方としては、僧という立場になって保護を受けるという生き延び方ですよね。親からの保護を受ける代わりに。

 僧侶というのは非生産階級で、経済的な価値というものを全く生み出さないで、他人からのお布施を受けて、毎日毎日深刻な顔して「僕は人生を考えてるんだ」って言いながら生きているのだと思いますが、これを「僧侶→ニート」「他人→親」と置き換えると、話はそのまま成立します。
 つまり、ニートというのは非生産階級で、経済的な価値というものを全く生み出さないで親から援助で生活して、部屋に篭って毎日何かを鬱々と考えているわけです。

 これはほぼ同質のものではないかと言うのは、確かに乱暴な議論ですが、でもやっぱり随分と似ていると思うのです。
 インドではニートに「僧」というポジションを与えて、社会として彼らの存在を容認してきました。インドは人口が10億を超える国ですが、このような大集団にあってニートの発生は当然だといえば当然です。日本はようやく戦後の傷跡が癒えて、バブルも終わって、人口も1億3000万を数えて、集団には当然発生しうるニートに恐れをなしていますが、僕はニートという枠組みができたことは「僧」という枠組みが古代のインドにおいてできたのとおなじような意味を持つと思います。

 以前のブログにも書きましたが、ある村では一人の天才的なロープ職人が周りのぼーっとしている村人を養うというスタイルが出来上がっていて、僕はそういうのもありなんじゃないかと思うわけです。
 たしかに、ぼーっとしてるだけで働かないで生きているのはズルイですけれど、でも集団というのは結構そんなものなんじゃないかとも思う。

 有名なアリの研究があって、アリの集団でも優秀なのは20%で、あとはふらふらしてるだけなんだけど、ときどきそのふらふらしてるやつが思わぬところからエサをとって来る。それで優秀な20%をとり除くと、残りの駄目なやつのなかから20%がやっぱり優秀な働き者にかわる。その「優秀」と「駄目」のバランスがとても大事なのだ、という話です。

 人間とアリは違うけれど、でも集団の振る舞いというのは似ているんじゃないかと思う。