オイコノミクス。

 2限の講義が終わって、教室を出ようとしたら後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返るとAちゃんだった。その後、お昼を一緒に食べて、話をしていたら夕方になっていた。僕は洗濯物を溜め込んでいて、この日アルバイトに来ていくシャツがないことを思い出して慌てて部屋に戻って洗濯をした。
 一緒に話をしていて思考がドライブする人と話すのはとても楽しいと思う。

 この日、2限に僕らが受けていた講義というのは大まかにいうと経済や会社経営の実態に関するもので、工学部の学生にも経営のことを教えておこうというものだった。つまり、お金の話。
 そのバリバリの銀行マンは「人はお金の為に働く」というような表現を一度用いて、僕はそのときに小さな違和感を感じた。
 もちろん、彼の主張が「お金のために働く」というものに終始する訳ではなく、彼はたぶん労働と経済の本質を的確に、しかも身体的にきちんと把握していると思う。でも、一度はその表現が出て来て、僕は経済活動の力や起源のことを考えた。

 これは日頃から思っていることだけど、「お金ではお金では買えないものが買える」。
 マスターカードのCMで釣竿とかテントとか色々なものの金額を並べて、最後に釣りに行って「息子の笑顔。ノープライス」みたいなのがあったけれど、あのコマーシャルはまさしくその点をついたものだ。僕たちはお金を払って、何かの商品やサービスを手に入れる。その商品を使って、サービスを受けて得られる経験というものは値段の付けようがないくらいに大切なものだ。
 実はここには経済のもっとも本質的なことが表されている。
 僕らは、お金で何かを売り買いしている訳ではない。僕らは、お金というほとんど世界中で通用する媒体を使って「経験」、言い換えれば人生そのものをぐるぐるみんなで回して共有して、そうしてより多くのことが可能な人生を送ろうとしている。それが本当のところだと思う。世界共通語は英語ではなくて、たぶんドルだ。もしも地球の経済がこんなに発展していなかったら、僕たちは海外旅行にも行けない。お金に対する概念がぷつんと遮断された国に出掛けて行って、僕たちはどうやってレストランに入るのだろうか。日本から簡単に旅行に行けるということは、日本とその国がお金で繋がっているということに他ならない。そう思うと、お金は本当に便利だと思う。

 僕は経済のグローバリゼーションを単に良しとはしない。世界規模で起こっている貧富の差というものは、ある小さな地域の中で起こる貧富の差よりも遥かにスケールが大きくなるからだ。これは本当に大きな課題だと思う。人類が抱えている今一番の問題だと思う。

 その昔、どうやって異なる文化圏での交易が始まったのかというと、それは沈黙交易という形態の交易からだった。沈黙交易というのは、A村の人々があるポイントPにA村の特産物を置いてきて、次にB村の人がPにやって来てその特産品を貰い、代わりにB村の特産物を置いていくという言わば顔の見えない交易のことで、言葉も通じないので物を交換すること自体がコミュニケーションだった。

 この交易を見るときに僕たちが注意しなければならないのは、交易がどうやらA村で余ったものと、B村で余ったものを交換するということではなかったということだ。
 たとえばA村は海辺にあり、B村は山奥にあって、それぞれ海の幸、山の幸が豊富だとする。だからA村では魚が余って、B村では果物が余り、それを交換したということではなく、A村の人々は「交易」をしたいから魚をたくさん獲り、B村の人々も「交易」をしたいから果物をたくさん採った。先にあったのは「余った」という事実ではなくて、「交換をしたい」という欲求の方だった。なぜなら上にも書いたように、この交易、交換というものは彼らにとってはコミュニケーションそのものだったからだ。人類は誰かとコミュニケーションをとりたいという強い欲求を抱いて生きている。
 これは今を生きる僕たちだって同じことだ。働いて経済活動に参加するということは、世界中で行われている「交換」活動に自分も参与することに違いない。

 つまり、経済とはコミュニケーションのことです。

経済ってそういうことだったのか会議

日本経済新聞社

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