とても良く晴れたある朝にコインを投げることについて。

 前回のブログにコメントを貰って、その返事を書いているうちに僕は禊のことを思った。

 どういうことなのか、もう少し詳しく説明すると、僕は最近とてもついてなくて、いいことも人並みにはしているのに、昨日は10000円を落とした、という話を先日のブログに書いて、そのコメントに、良いことはちゃんと返ってくる、というありがたい言葉を2人の友人から貰って、その返事を書いているときに「そうか、この10000円は禊なのだ」ということを思い付いたというわけです。

 昔、ある民俗学の本を読んでいると、僕たち日本人が神社にお賽銭を投げたりするのは、お金に穢れが乗っているという思想が根底にあるからだという解説が出て来て妙に納得した。もうそこに何が書いてあったのかはほとんど忘れてしまったけれど、お金と穢れの関係についてとても説得力のある説明がなされていたと思う。

 お金は、別に穢れているわけではないけれど、穢れを吸い付けるというような呪術的側面を持つ。だから、あまりお金をため込んではいけない。お金は使われなくてはならない。これは多くの先人達も言うことだ。単に経済的なことではなくて、呪術的にお金は使わなくてはならない。

 という文脈で、僕は無理矢理なくしたお金について納得する。
 僕は10000円で禊を行ったのだ。10000円に穢れを載せて、そしてどこか知らないところに落としてきたのだ。

 これを単なるこじつけだと考えるか、それとも一つのロジックではあると考えるかは意見の分かれるところだけど、僕にとってこの考え方は魅力的なので今回は採用することにした。だから、運良くなくしたお金が出て来ても、僕はもうそれを財布に入れる訳にはいかない。

 コメントに対する返事を書く、という行為がなければ、僕はたぶん禊ということに思いを走らせなかったと思う。やっぱり人とのコミュニケーションというのは偉大だし、とても大切だ。

 呪いに関して、そんなもの存在しない、という人が多いので、呪術ついでにここで少しだけ書いておきたい。

 呪いというものは確かに存在している。
 もちろん、この世界に。僕たちの住むこの世界、現代にも。そして、呪いというのはとても簡単に使うことができるし、僕たちは現に呪いを掛けたり掛けられたりしている。そのほとんどは言葉のことです。

 さっきから色々と考えてはいるのですが、ここで呪いについて、読んで下さる方に呪いを掛けないように言葉の例をあげて説明するのはとても困難なので、言葉の例は挙げません。
 京極夏彦さんがうまいことを言っていて、「呪いとは脳に仕掛ける時限爆弾のことだ」と。

 丑の刻参りという呪いの技法が日本には存在しています。たぶん、多くの方がこの呪いのことをご存知だと思います。そして、これはとても大事なことですが、丑の刻参りが呪いとして機能するためには「丑の刻参りがその共同体の中で呪いの術だと認識されている」ことが必要です。
 誰かが夜中に丑の刻参りをしている、という噂が、つまり「誰かがある人を呪っている」という噂が共同体の中に流れたとき、「呪われている」と言われた当の本人は気が気でなくなってしまうわけです。やっぱりなんか気分悪いですよね。これは別に丑の刻参りという行為そのものに力があるのではなく、「丑の刻参り」という呪いを示す記号が機能を果たしているということで、行為そのものは別になんだっていいわけです。たとえばその共同体で「ホットケーキを焼く」=「呪いの術」だという認識があれば、

 リサ「今日、わたしホットケーキ誰かが焼いてるの見たよ。ハチミツで上にポールって書いてあった」

 ポール「えっ、ホントに、嫌だなあ、誰かが僕を呪っているんだ、どうしよう」

 と、ホットケーキを焼くだけでポールを苦しめることだってできる訳です。この苦しみこそ呪いに他なりません。

 「なんだ、そんなことか」と思った人は呪いの仕組みを知ったので、なんだ、と思えたのです

 呪いというのはその仕組みを説明されたとたんに効力を失うものでもある。