ドーナツトーク。

 最近、ものすごく年下の人間と話す機会が多いのですが、どうしても説明できなくて困ることが結構多い。ついつい「大人になればわかるよ」と言いたくなる。もちろん、懐疑的な子供時代を過ごした経験を持つ僕には「大人になればわかる」という台詞に何の説得力もないことがわかる。「大人になれば分かる」という言葉の意味も大人にならなければ分からないのだ。

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にはこういう文章があります。

 6・512 人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される

 だから、年老いて人生の何であるかを悟得した人間が、自分の悟った何かを説明することができないという場面はよくある。

 僕たちは答えを見つけるのではなく、問題を消すのだ。
 そして、答えはそのとき「語り得ぬ」何かになっている。その先に一体何があるのかは誰にも分からない。

 ウィトゲンシュタインに僕が興味を持ったのは、昔何かで彼が「説明というのはメタファーに過ぎないのだ」ということを言った人だと知ったからで、当時の僕にとってはなかなか衝撃的な言葉だった。
 「説明とはメタファーに過ぎない」
 僕たちは言葉で何も本質を説明することはできない。人間は哺乳類だとか直立二足歩行だとか、言語を持つとか、遊ぶとか、そういった定義をいくら重ねても「人間」の本質に迫ることはできない。「人間とは人間である」としか、本当は言いようがない。でも、それじゃなにも伝えることができない。つまり、言葉というのは他の言葉に対して本質的に独立なのだ。
 強い閉塞感と鋭さ、砂漠みたいな荒涼感。

 でも、まあ僕たちは普段この言葉で楽しく暮らしているわけですが。

 僕たちは自由に物事を考えることができるけれど、でも、自分がどのようにして物事を自由に考えているのか、その仕組みのことは何も知らない、これは多分本当の自由じゃない、ということを歴史上はじめて喝破したのはフロイトだけど、いまだに僕たちがどのように物事を考えているのか理解している人間は世界に一人もいないと思う。

 脳を調べたり、論理のことを調べたり、研究はたくさん行われているけれど、僕たちはなかなか本物の自由について語ることができない。

 実はとても簡単な論理に関しても、僕たちは意外に何にも知らない。

 とても簡単な論理、たとえば、「AならばB」。

 アキレスと亀という有名な寓話があって、それは確か不思議の国のアリスの作者で数学者のルイス・キャロルが書いた話なのですが、こういった話です。

 最初、亀は「AならばB」というのも、「A」というのも認めます。それなら、すぐにAならばBとそのままBも認めて良さそうなものですが、でもBだとは亀は認めません。なぜかというと、「AならばB」も「A」も認めるけれど、今はまだ

 『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』

 という「AならばB」と「A」の関係を定義する第3のメタな条件がないから「B」とは認めることができないのだと亀はアキレスに主張します。

 ・「AならばB」
 ・「A」

 だけでは足りなくて

 ・「AならばB」
 ・「A」
 ・『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』

 という3つの条件が「B」というためには必要だということです。
 そこで、アキレスはこの3つの条件を仮定し、ならばいよいよ「B」と認めるか、と改めて亀にききます。でも、亀はやっぱりイエスと言わない。

 亀の主張は

 ・「AならばB」
 ・「A」
 ・『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』

 でも、まだ足りなくて、さらにメタな条件

 [「AならばB」かつ「A」かつ『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』ならば「B」]

 というものが新たに必要だというわけです。整理すると。

 ・「AならばB」
 ・「A」
 ・『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』
 ・[「AならばB」かつ「A」かつ『「AならばB」かつ「A」ならば「B」』ならば「B」]

 この4つの条件を満たさなければ、Bとは言えないと亀は言います。そこで、アキレスはこの4つの条件を前提とし、「では、これで」と亀に再び尋ねるのですが、もうお分かりの通り、亀は首を縦には振りません。条件が永久に増え続けて行きます。

 僕たちは普段

 ・「AならばB」
 ・「A」

 という2つの条件からBであると簡単に言っていると思います。
 でも、亀の意見ってどこが間違っていますか?

 世界というのは意外に手ごわいなと思う。