トランポリン。
しばらく休みだったのですが、明日からバイトだなと思ってなんとなく漫ろな夜をすごしているとBからメールが来て、「甘いものが食べたくなった」というので11時頃からエトワに行った。
彼女はカボチャプリンとアイスのプレートと、あといつも通りジャスミンティーを頼み、僕はマンゴーココラッシーフロートを頼んだのだけど、この店には休みの日も店員さんが遊びに来ているので、いつもは働いているけれど、今日はカウンターに寄りかかってお酒を飲んでいる、という状況の店員にオーダーを出していいものかどうか悩むときがある。
もちろん、本当は休みだろうがなんだろうが快く応じてくれるし、本人達の間ではオンもオフもあまり関係がないのかもしれない。よくできたお店だと思う。
6000円も出して買ったのに大阪万博のDVDを途中まで見て、見るのをやめてしまった(しかもほとんど早送りで見ました)。
まあ、こういうこともある。
「こういうこともある」
というのは、事態をライトにする魔法の言葉だと村上春樹が言っていた。
つまり。
そして、僕はライトになる。
ヘッドホンで西海岸の音楽を聴きながら自転車に乗っていて、空を見たら入道雲で、僕はおとなしくしていられなくなる。
夏というのは信じられないくらい素晴らしい。
僕はさらにライトになる。
ライトというのは軽いという日本語のことではありません。
ライトというのはライトということで、それ以上でもそれ以下でもない。
言葉というものは本当は翻訳なんてできない。
大学の、外へ通じる階段にゴキブリが死んでいて、少し嫌だな、と思っているとアリたちが一生懸命に運ぼうとしていた。
自然の摂理に従って、僕らが掃除しなくても彼らがすべてやってくれる。
ただ、少し時間はかかるみたいだけど。
僕は昔実家に住んでいて、木のベットを買ってもらったときのことを思い出す。
なんと、そのベットにはどうやらアリが巣を作っていたようで、ベットが来てしばらく経つと部屋の中にアリたちが出歩くようになったのです(小さいアリたちですが)。
僕は、もちろん最初驚いたけれど、彼らは別に悪さもしないし、それどころか僕が床にビスケットの欠片やなんかをこぼすと、誰かが見つけて掃除をしてくれるし、これは便利だと思って、ガミガミうるさい母親を尻目に、僕はしばらくアリたちと生活を共にしていました。
そんじょそこらのお掃除ロボなんかよりもずっと優秀だし、なにより本当に生きている生き物だから、なんとなく感謝の念がわく。
でも、問題は彼らの巣が部屋の外ではなくて僕のベットのなかにあるということで、ビスケットの欠片やなんかは、なくなったように見えても実際はベットに中にしまいこまれただけで、本質的にはこれは掃除とは言い難い。
とにかく、掃除になっていようがそうでなかろうが、僕はアリたちがせっせとゴミを運ぶのが面白くて、ときどきはわざとポテトチップをこぼしたりして、それなりにアリとの生活を楽しんでいた。
アリが羽を運んでいる、ああ、ヨットのようだ。
という詩を書いた人は誰か思い出せないけれど、僕はなぜか小学校の時に通っていた塾の先生がこの詩がなんか好きなんだよね、と言ったのを忘れることができない。
僕は特に好きでもないのだけど。
なにかを運ぶアリを見ると、必ず僕はこの詩を思い出す。
運んでいるものが羽なんかじゃなくて、全然ヨットに見えなくても、それはヨットを思わせ、海を少しだけ連想させる。
こういうのは文学の本質的な力の一つだ。
意味なんてわからなくも、自分が何を読んでいるのか分からなくてもいい。ある文章を読み、聞き、それがなんとなく記憶に残り、何十年も経ったある日、自分が見ている光景がその文章を呼び出し、同時に呼び出された文章によって世界の見え方が変化する。
こういう仕方で文学は機能する。
ある日、学校から帰るとアリたちは一匹残らずいなくなっていた。
母が業者を呼んだそうだ。
世界というのは突然変化する。
彼女はカボチャプリンとアイスのプレートと、あといつも通りジャスミンティーを頼み、僕はマンゴーココラッシーフロートを頼んだのだけど、この店には休みの日も店員さんが遊びに来ているので、いつもは働いているけれど、今日はカウンターに寄りかかってお酒を飲んでいる、という状況の店員にオーダーを出していいものかどうか悩むときがある。
もちろん、本当は休みだろうがなんだろうが快く応じてくれるし、本人達の間ではオンもオフもあまり関係がないのかもしれない。よくできたお店だと思う。
6000円も出して買ったのに大阪万博のDVDを途中まで見て、見るのをやめてしまった(しかもほとんど早送りで見ました)。
まあ、こういうこともある。
「こういうこともある」
というのは、事態をライトにする魔法の言葉だと村上春樹が言っていた。
つまり。
そして、僕はライトになる。
ヘッドホンで西海岸の音楽を聴きながら自転車に乗っていて、空を見たら入道雲で、僕はおとなしくしていられなくなる。
夏というのは信じられないくらい素晴らしい。
僕はさらにライトになる。
ライトというのは軽いという日本語のことではありません。
ライトというのはライトということで、それ以上でもそれ以下でもない。
言葉というものは本当は翻訳なんてできない。
大学の、外へ通じる階段にゴキブリが死んでいて、少し嫌だな、と思っているとアリたちが一生懸命に運ぼうとしていた。
自然の摂理に従って、僕らが掃除しなくても彼らがすべてやってくれる。
ただ、少し時間はかかるみたいだけど。
僕は昔実家に住んでいて、木のベットを買ってもらったときのことを思い出す。
なんと、そのベットにはどうやらアリが巣を作っていたようで、ベットが来てしばらく経つと部屋の中にアリたちが出歩くようになったのです(小さいアリたちですが)。
僕は、もちろん最初驚いたけれど、彼らは別に悪さもしないし、それどころか僕が床にビスケットの欠片やなんかをこぼすと、誰かが見つけて掃除をしてくれるし、これは便利だと思って、ガミガミうるさい母親を尻目に、僕はしばらくアリたちと生活を共にしていました。
そんじょそこらのお掃除ロボなんかよりもずっと優秀だし、なにより本当に生きている生き物だから、なんとなく感謝の念がわく。
でも、問題は彼らの巣が部屋の外ではなくて僕のベットのなかにあるということで、ビスケットの欠片やなんかは、なくなったように見えても実際はベットに中にしまいこまれただけで、本質的にはこれは掃除とは言い難い。
とにかく、掃除になっていようがそうでなかろうが、僕はアリたちがせっせとゴミを運ぶのが面白くて、ときどきはわざとポテトチップをこぼしたりして、それなりにアリとの生活を楽しんでいた。
アリが羽を運んでいる、ああ、ヨットのようだ。
という詩を書いた人は誰か思い出せないけれど、僕はなぜか小学校の時に通っていた塾の先生がこの詩がなんか好きなんだよね、と言ったのを忘れることができない。
僕は特に好きでもないのだけど。
なにかを運ぶアリを見ると、必ず僕はこの詩を思い出す。
運んでいるものが羽なんかじゃなくて、全然ヨットに見えなくても、それはヨットを思わせ、海を少しだけ連想させる。
こういうのは文学の本質的な力の一つだ。
意味なんてわからなくも、自分が何を読んでいるのか分からなくてもいい。ある文章を読み、聞き、それがなんとなく記憶に残り、何十年も経ったある日、自分が見ている光景がその文章を呼び出し、同時に呼び出された文章によって世界の見え方が変化する。
こういう仕方で文学は機能する。
ある日、学校から帰るとアリたちは一匹残らずいなくなっていた。
母が業者を呼んだそうだ。
世界というのは突然変化する。