コンクリート。

 オリーブオイルに漬け込んだブルーチーズを、オイルごとスプーンですくってフライパンに入れ、トマト炒めご飯はできあがった。本当はマッシュルームが欲しかったけれど、冷蔵庫にはニンジン(しかもあまりおいしくない)とレタス(これはとてもおいしい)しか入っていなかったので断念する。
 僕はラジオを止めて、テレビを点ける。
 料理をするときは音楽を聞き、食べるときにはテレビを見るか本を読む。

 テレビには京極夏彦が出ていて、とても的確に妖怪とは何かを語っていた。それは僕が昔誰かに伝えたかったけれどうまく言葉にできなかったことそのままだった。

 「だってほら、なんか怖いというよりも、なんか懐かしい感じしない? 妖怪って」

 当時、僕に言えたのはそれだけで、他にはなんの説明もできなかった。

 「そりゃあ、妖怪なんていないし、だから君も妖怪のことなんて良く知らないだろうから、説明なんてできなくてもしかたないよ」」

 そういったフォローだってあるかもしれない。
 だけど、妖怪というのは実在する。メタファー抜きに。

 妖怪というのはキャラクター化された現象が形成する集合のことだ。
 しかも、新しくてはならない。どちらかというと古いものが妖怪になり得る。ちょっと古くて不可解なもの。

 すこし話は逸れるけれど、ここで僕ら人類の外界認識に触れておきたい。

 人類の偉大さというのは、その外界認識において「これは不明である」というエリアを確保できた点にある。「これは不明である」つまり、我々の現段階での理解を超えている。もしくは想像力を超えている。我々の想像すらできないことがこの世界には存在しているのだ、という認識。
 たぶん、この認識を持っているのは人類だけなんじゃないかと思う(もっとも他の生き物たちがどういった気持ちで暮らしているのかはわからないけれど)。 

 僕たちは、解明したい、という意思は持つものの「不明」というゾーンを作ることに成功し、その他の動物は「〜である:〜でない」の2進法的な感覚しか持たない。
 たとえば、「これはエサである:これはエサではない」、「これは敵である:敵ではない」。
 といったように。
 その場その場に応じて、自分の頭の中にある概念を引っ張り出し、それに当てはめ、うまく当てはまるかそうでないかを判断して白黒を決める。ときには同時にいくつかの概念を引っ張り出してきて、当てはめる。迷う事だってあるだろう。でも、迷いをそのまま維持することはできない。
 答えはいつだってイエスかノーなのだ。

 対して、人類は自分たちの概念では裁ききれない、つまり僕たちの概念は全然足りていない、という可能性を保持することができる。訳の分からない状態に耐えることができる。

 この訳の分からないものを「訳が分からない」という状態のまま保持するための機構の一つが「妖怪」だと僕は思う。
 まさしくキャラクタライズして、「妖怪」エリアに放り込んでおく。これは本当は実に知的な作業からうまれた手法なのだ。