スイミングパーティー。

 昨日、夕方のニュースで、台湾の卒業式は変わっている、という話題を流していた。なんでも「社会の厳しさを教える卒業式」ということで、まるで運動会のようなゲームの果てに卒業証書を手にするらしい。

 僕はこの「社会の厳しさ」という言葉にとても強い違和感を感じずにはいられない。
 それはずっと昔から感じている違和感で、違和感というよりもむしろ不快感と言った方が正しいかもしれない。

 このニュースを見たときに僕は自分が感じている不快感の理由が分かった気がした。

 その不快感は、「社会の厳しさ」という言葉を使っている当の本人がその社会の一員である、という事実に起因する。
 それから、社会という言葉で何もかもを一まとめにしていること。

 「あなた、自分は社会人だって偉そうに言うけれど、その社会って物の端から端まで、なにもかも知っているのですか? 僕が思うに所詮あなたのいう社会というのはあなたの周囲数十メートルの至って近眼的なものですよ、きっと」

 どうして社会人が「社会の厳しさ」という言葉を用いることを僕が不快に思うのかというと、それは責任を負うことを拒んだ人間の言葉に聞こえるからだ。
 社会は厳しいのだよ、というとき彼は自分自身が構成員であるにも関わらず、その社会の持つ厳しさというものを自分とは全く無関係の何かだと仮定している。でも、本当はその責任の一端は彼自身にもある。

 これは丁度、小泉純一郎総理が「自民党なんてぶっ潰す」と言ったとき、「でもあなた自身、自民党の一員ですよね」と文句を言いたくなるのに似ている。彼は自民党の一員として、間違いなく自民党から恩恵を受け、そして自民党の悪いところに関する責任の一端を担っている。でも、そんなことは気にしない。まるで自分と関係のない自民党という組織に悪があって、それを叩きのめすと言わんばかりだ。

 あるいは「世間が許さない」というエクスキューズに似ている。
 世間ではなくて、単にあなたが許さないのだろう、と思う。

 社会の厳しさ、というのは漠然とした概念ではなくて、単に社会人一人一人の行いが重なってうまれたもので、それをまるで自分だけには関係がない、自分も被害者なのだ、というような顔をしないで欲しいと思う。