スカイブルー。

 今日は少しだけ心斎橋まで出掛けた。
 電車に乗る度に思うのですが、電車のドアに付いている窓に張られた広告シールはどうやって貼っているのだろう?
 全ての窓にきれいに垂直と水平のラインをそろえて、同じ高さで同じ位置に張ってあるように見えるのだけど、あんなの全部一つ一つ慎重に測ってやっていたのでは随分と時間がかかりそうな気がする。何か僕たちが普段絶対に目にすることがないようなテンプレートがあって、それを使ってさくさく張ったりしているんだろうか?
 誰か知っている人がいたら教えて頂けると嬉しいです。

 電車のアナウンスで「痴漢は犯罪です」というようなのが流れる。何か物を売っているお店でもときとき「万引きは犯罪です」と書かれた張り紙を見る。
 でも、僕らは別に犯罪だから痴漢や万引きをしないわけではない。人に迷惑をかけたり誰かを傷付けたりするようなことはなるべくしないというだけのことで、法に触れるかどうかは関係がない。
 もちろん、抑止力とはなるだろうけれど。

 電車の中で読んでいた本に山本耀司さんの話が出て来て、印象的だったので書いてみます。

「若いときっていうのは、大人の着ている物を”崩す”バランスを変える””わざとだらしなくする”
ことから、服を着はじめます。学生時代まではそういうふうに反抗していて、就職となると常識の中に入る・・・。
 でも、そうでしょうか。
 一着の服を選ぶってころは生活を選ぶことだから、実は大変なことなのに、学生時代は、あれは遊びだったんですか、みたいなクエスチョンマークがどうしても付くんです。そうなると、子供の遊びのために一生懸命作ってられないよという心境になることもある。(鷲田清一”ちぐはぐな身体”より」

 これはとても強い意見だ。
 もちろん、賛同できない人も沢山いると思う「たかだか服じゃないか。君はデザイナーだけど、我々はそれを仕事にしてるわけじゃないんだよ」というように。

 でも、たぶん服というのは単に服ではない。

 それは何かのシンボルに必ずなっているし、確実に時代を反映している。
 ジャポニズムだとかシャネル以前、西洋の女性はコルセットとクジラの髭で大きく膨らませたスカートを身に着けていた。今みたいに動き易い服なんて着ない(もちろんあらゆる人がという訳じゃないし、ある意味局所的な話になるけれど)。
 川久保玲コム・デ・ギャルソン以前、黒い服なんて喪服でしかなかった。

 僕たちは様々なものに縛られている。それも多分雁字搦めに。
 ファッションというものは、その僕たちを縛り付けているものの一旦を日の下に晒し、そして解体する可能性を持っている。見えるのに誰も見ていない物を、僕らに提示し、そして何かを破る。

 この山本耀司の話を読んで、僕は「狂気の桜」で窪塚洋介が言っていた言葉を思い出した。

 (どこかのクミに入って特攻服みたいなのを着た須藤元気がその特攻服のことで、大人になったし好き嫌い言ってられない、と言ったのを受けて)
 「大人だからこそ好き嫌いはっきりさせんじゃねーか」

 それはそうだ。
 基本的に子供というのは好き嫌いが言えた立場ではない。与えられた服を着て、決まった給食を食べて。好き嫌いができるのは大人になってからだ。大人になっても好き嫌いを言わないと、つまりそれは自分では何も選択しないまま死んで行くということを意味する。そういう生き方が良いのか悪いのかは誰にも決められないし、僕たちの生きているこの時代が、「自分で選んだ人生」というものに重きを置き過ぎているのも事実だと思うけれど、少なくとも時々は好き嫌いを言った方がいいような気はする。


ちぐはぐな身体(からだ)―ファッションって何?

筑摩書房

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