ダンスパーティー。

 迷路の攻略法の中に左手法というものがある。
 これはもっとも原始的な方法だといってもいいと思うけれど、左の壁をずっと伝っていくとやがて出口にたどり着く、というものだ。
 あらゆる分岐点で、単に左を選べばいい。何も考える必要もないし、迷う必要もない。そして、最短距離とは行かないけれど、ゴールには必ず辿り着く。

 こういう一つの頼りになる方針が、日々の生活の中にも存在していれば、どれだけ楽に生きることができるだろうかと思う。
 だけど、幸か不幸かそんなものは存在しない。
 僕たちはあらゆる瞬間に選択を迫られ、その判断基準は毎回変わる。さまざまな局面にフレキシブルに対応しなくてはならない。一つの方針にしがみついていると見えなくなるものがとても多い。

 何が言いたいのかというと、方針なんてどんどん変わるものだし、首尾一貫して何かを主張するというのはそれほど良いとは思えないということです。
 それから、自分の思考や何かに拠り所を作らないこと。
 中心は虚でなければならない。

 先日、また自転車に乗っていて、そして協会の前を通った。
 協会からは3人の青年が出てきた。彼らは3人ともきちんと整った服装をしていて、一人は白人で後の二人は日本人だった。
 僕は彼らが談笑するのを見て、彼らを結び付けているものは友情なのか信仰なのかどちらなのだろうかと思った。

 宗教に対して批判的な態度をとることは、なんとなくタブーだという風潮があると思う。
 国際化はどんどんと進んで、あと僕らの時代がポスト構造主義の時代で、異文化を理解しましょう、他人を理解しましょう、というスローガンが闊歩し、とにかくなんでも一度「あなたの文化を認めます。世界には色々な考え方があるものです」という断り書きを入れた上で話が始まることが多い。

 だけど、宗教と言うのは本来閉じたものだし、分かり合うことなんてできないんじゃないだろうか。
 確かに歴史的には宗教は決して閉じきってはいない。例えば、ユダヤ教からキリスト教が生まれ、キリスト教からさらにはイスラム教が生まれた。仏教ヒンズー教なしには生まれなかったし、日本神道は中国の道教をベースにしている。それに戦後の日本では神仏習合が起こり、今では寺の中に鳥居が立っていることもそんなに珍しくはない。つまり、歴史的な観点から言えば、宗教と言うのは結構アクティブに自分の殻を破ることもあると言える。

 ただ、何かの宗教を信仰している人に「他の考え方もあるのだ」ということを説明することは本質的に不可能に近い。せいぜい、「あなたの言うことはよく分かります。私たちの宗教は物分りのよい宗教ですから、他の宗教のいうことも認めることになっています」という飽くまで自分たちの宗教を上位概念に置いた理解しかしてくれない。

 つまり、「なんでも認める教」という宗教があって、その信者に「僕はこう思う」というと、「それは認めますよ。なにせ、なんでも認める教ですから」という答えが返ってきて、結局「なんでも認める教」の枠組みの外にでることができない。他の考え方をすべて包含しようとする。たとえ、「なんでも認める教っておかしいですよ」という意見をしても、「ええ、ええ、そんな意見も大歓迎ですよ。なんでも認める教ですから」という答えが返ってくる。

 こういうふうに、宗教というのは、だいたいにおいて他の意見を聞くようでいて実は巧みに自分の宗教が相手の意見の上位に来るように構造化されている。
 これは信者にとっては自分の信じる宗教の万能性を幻覚させるものだ。

 だから何をいっても無駄なのだ。
 このとんでもない閉塞感。
 だぶん、知性というのはこの枠組みを打ち破る行為を差す。
 知性と宗教の違いは、知性が知性の外側に存在する知性で扱い切れないものの存在を認識するのに対して、宗教は宗教の枠組みからはみ出したものを想像できないという点にある。

 ときどき、科学も宗教に過ぎないという議論があるけれど、でもはっきりいって科学は宗教ではない。
 なぜなら、本物の科学者というのは科学自体の限界と欺瞞を認識する努力を怠らないからだ。

 理論の美しさを追い求め、宇宙のすべてを表す統一理論を探す物理学者に、かつてリチャード・ファインマンは言った。「どうしてそんな式があると思うのか。もともとこの世界には最終的な理論なんてものはないのかもしれないじゃないか」

 科学は科学自身を疑う。科学の中にいながら科学の外側を見に行くのはとても難しいし、本当はできないことなのかもしれない、でも科学者というのはできないこともしようとするものなのだ。

 もちろん、僕は宗教が違うからといって仲良くできないとは思わない。
 仲良くするのに整合性なんて必要ないからだ。大切なのは彼や彼女自身であって、彼や彼女の神様ではない。