チェッカー。

 昨日の夕方、慌てて図書館へ行き、閉館間際の10分間で本を適当に借りた。
 レヴィナス村上春樹と山折哲夫と、それから「やってみよう、地域通貨」という変わった本を借りた。

 「やってみよう、地域通貨」といタイトルには本当にインパクトがある。
 「やってみよう、編み物」だとか「やってみよう、ガーデニング」ならば話はまだ分かる。誰だって、うん、ここは一つやってみるか、と感じるに違いない。
 でも、この本が扱うのはなんといっても「通貨」なのである。もちろん、地域通貨というのは普通の意味合いで我々が普段用いる「通貨」という単語とは意味が異なる。たしかに編み物やガーデニングと同じような感覚ではじめることができるかもしれない。ちょっとした組織が必要となるので「作ってみよう、サッカーチーム」だとか「作ってみよう、バンド」というのにより近いかもしれない。

 ざっとその本を斜めに読むと(そんなに面白い本というわけではなかった)、地域通貨というのは「本物のお金」と「ただ」の中間を埋めるような存在であることが分かった。

 たとえば、一人暮らしのおじいさんのことを考える。

 彼はたぶん82歳で、まだ比較的元気が良くて、それから庭の手入れが得意かもしれない。あるいは名前だって亀谷宗吉朗さんというのかもしれない。
 宗吉朗さんはもう12年も一人で暮らしていた。鳥が大好きなので、庭には小鳥の水飲み場と、お米やパンの切れ端を入れておく白いお皿がのった古い机があった。宗吉朗さんは毎朝、だいたい6時かっきりに小鳥の水とお米を取り替えた。
 小鳥達のほうも、いい加減に心得たもので、朝の6時になると宗吉朗さんの庭にやってくるように習慣が付いていた。宗吉朗さんは、そうして鳥達が集まってくると、「ん、ん」と小さく唸り(もちろんそれはとても穏やかな唸りだ)、鳥達はゆったりと水を飲み、お米を食べた。
 庭は、手入れの得意な宗吉朗さんのことだから、それは実に気持ちよく作られていた。庭木の他に、いくらか鉢植えの花も飾ってあり、一つだけ捻くれた形の苔むした石灯篭があった。手水鉢にはいつも鮮やかな花びらが1枚浮かんでいた。

 こうした、とても静かな暮らしというものは、それは確かに素敵ではあるが、時々、宗吉朗さんは寂しくなった。
 なんといっても、一人で暮らしているのだ。

 さて、地域通貨のことを書かなくてはならない。
 ここに、地域通貨を用いて宗吉朗さんを庭師として雇う、ということを考える。

 もしも隣に宗吉朗さんが住んでいても、自分の庭を「時給1200円くらいでちょっと手入れしてもらえませんか?」と頼むのは、なんとなく気が引ける。たぶん、人の良い宗吉朗さんのことだ。「いいえ、そんな、ただでいいですよ、もちろん」と請合うに違いない。
 だけど、頼むほうだってただで働いてもらうのは心苦しい。

 そんなときに「地域通貨」を使うというわけである。
 たとえば、単位を「プリン」と定めるなら(本物のプリンではない)、「じゃあ5プリンで、お願いします」「わかりました、では5プリンで」となるわけである。

 そして、宗吉朗さんは、その5プリンで斜め向かいの家に住んでいる少年からギターを教わった。

 つまり、地域通貨プリンの交換によって地域内のコミュニケーションやなんかが活発になると言うわけです。
 すこし恐ろしいことに、この地域通過には「時間が経つと価値が失われていく」という性質を持つものがいくつかあります。それは「早く使わなくては価値が減る」のでみんながその地域通貨を早く使うようになり、結果的に地域内の交流速度は加速する、というわけです。

 つまり、この通貨の目的というのは地域の活性化に他ならない。地域通貨の使用は、コミュニケーションであり、お金のための経済活動とは次元の違う経済活動が発生し、それは僕らの生活を楽しくする可能性を持つ、ということです。
 かつてレヴィ・ストロースが言ったように、僕らは交換によって成立しているし、これはなかなか楽しいアイデアかもしれない。

 そういえば、佐藤雅彦さんが小学校の頃、学校で牛乳瓶のキャップが通貨として通用しだしたという話があったけれど、あれはまさしく地域通貨だ。

 やってみよう、とはあまり思わなかった。