手紙。

 スターバックスエドガー・アラン・ポーを読みながら待っていてくれると言うのなら、僕としてはどんなに雨が強く降ろうとも出掛けるしかない、しかも、彼女は夏が終わればヨーロッパの小さな国に留学して、たぶん1年か2年はもう日本に戻ってこないのだ。

 水曜の夜、中学を出てから全く会っていない友人に再会した。
 その小さなイベントには他にも、2,3年会っていない昔のバイト友達と、半年近く会っていない古い友達も来てくれた。
 僕とユミちゃんが店に着いたときには、既にみんな来ていて、呼んだ本人が一番遅れて実に申し訳ない思いをした。

 中学卒業以来会っていないと友人に会うのは、どんな気分がするのだろうと思ったけれど(実に11年振りのことだ)、とても普通で大した感慨を抱くことはなかった。
 もちろん、11年と言うのは結構長い時間だし、彼はシステムエンジニアになっていて一人前の大人になっていた。前にあったときはまだ15歳で、僕らは「大人にならなくては分からないこと」をほとんど何一つ知らなかったし、大体その存在自体を大人たちの詭弁ではないかと疑っていた、でも、今はもう26歳で「大人にならなくては分からないこと」が本当に世の中には存在するのだと知っている。つまり、大人になった。

 子供の頃は「大人になる」ことがとても嫌だった。人は年をとるにつれてどんどんと汚れていくのだ、鈍くなるのだ、という物語がたくさんあるせいだと思う。たとえば、子供にしか見えない妖精だとか。
 たしかに、子供にしか見えない妖精というものはこの世界に存在している。でも、思うのだけど、大人にしか見えないものはもっとずっとずっと沢山存在しているのだ。10歳の時の僕には見えて、今の僕には見えないものは確かにあるのだろうけれど、でも26歳の僕には10歳の僕よりもたくさんの物事を見ることが可能なのだ。

 その夜、中学生の時から知っている僕ら3人に関して言えば、外見もそんなに変わってはいないし、年をとり肩書きが変わったものの本質的には何も変わっていなかった。
 きっとそういうものなのだと思う。

 株の話を振ると、彼はシステムエンジニアだけど経済学部卒で、今も銀行のシステムを作っているので、いくらかそのような話を聞くことができた。
 年をとることがとても素敵なことのように思えた。
 子供の頃、僕らは単なる客で、高校生や大学生になると友達がウエイターをしている店ができ、22歳を過ぎる頃からはあらゆる業界にプロとして生きている友達の姿を見ることができる。

 次の夜、つまり木曜日の夜には、日本最大手のインテリアデザイン会社で働く友人に会った。こちらも久しぶりの再会で、彼は僕よりも年上で就職してから3年目だけれど、最後に会ったのは彼の大学院の卒業式の日で、じつに2年ぶりということになる。
 今、愛知万博を手掛けているということなので、万博の内情のような話を聞くことができた。もともと頭のいい人だな、とは思っていたけれど、プロフェッショナルになっていらして頼もしい限りだった。

 だんだんと、友達に会うスパンが長くなる。
 遠くに行ってしまったり、仕事を持って忙しくなったりして仕方ないことだけど。
 でも、長く会わなくても次に会ったときとても自然なのが、いかにも大人になった証だと思う。

 金曜日の夜、その子は僕にとても長い映画を見せてくれた。
 彼女が留学する先の国で作られた映画だった。
 光と影の使い方をとても強く意識して作られた作品だった。
 夏が終われば、また友人が一人遠くに行ってしまうわけで、僕は自分が向かう先に自分自身だって急がなければ、どんどんと取り残されていくと思った。