サングラスガールと赤い傘。

 誰も止めない目覚まし時計のベルを聞きながら、ぶどうパンを齧ってマンゴージュースを飲み、そして僕は1969年にカリフォルニアにいたという偉大な音楽家のことを考えていた。

 そうして10分間、1969年の空を眺め、誰もいないプールに忍び込むことを考えて過ごしたけれど、時計のベルは一向に止む気配がなかった。

 仕方がないので僕はテレビスターでも眺めようかとテレビのスイッチを捻った。
 でも、テレビスターはいなかった。
 そこにはテレビスターの代わりに白髪頭のきりっとした男が映っていて、僕らの国ではどれくらい言葉が乱れているのか、ということを様々なデータと共に解説していた。でも、ひとしきり話し終えると彼は宣言した。言葉なんて変わるものですから、これでいいんですよ。ワッハッハ。

 そういえば、先日の卒論発表会で言葉の乱れをテーマにした人がいた。

 僕のいるところは所謂工学部なのですが、でも言語やなんか文系よりの研究室もあって、論文の発表会では”プラズマ”だとか”カーボンナノチューブ”という言葉を聞いた後に”Jポップ”だとか”言葉の乱れ”なんていう言葉も聞く事になります。

 彼の発表は、身近な言葉の乱れよりももっと大きな社会的抑圧による言語の乱れが存在している、というようなものでしたが、内容以前に、僕は言葉の乱れという事自体について少し考えた。

 昔も何かに書いた事があるけれど、僕は現代人の言語能力が昔の人々のそれに劣るとは全く考える事ができない。

 昔は本も放送も今のように普及していなかった訳で、学校だってなかった。

 そんな時代、人々の使用する言語というものは地域の中に限定された要素を今よりも多く持っていたと考える事ができる。
 標準語というものは軍隊教育の為に作られたものなので、明治以前には標準語というものすら存在していなかった。

 こんな時代に誰が「言葉の乱れ」ということを日本国レベルで議論するだろうか。

 僕らが「言葉の乱れ」という言葉を使うとき、そこには「理想的な言葉」というものが日本国の総体で定義可能なのだ、という先天的な気付きが必要とされる。
 これがどういうことかというと、言葉の乱れについての話題が登るとき、我々日本人は潜在的に「全国民共通の言語体系」を獲得しているということである。

 日本語は全然乱れてなんかいない、変化はするものの、どんどんと一様なものに収斂しているのである。