ランダウ広場で祝杯を。

 南の方から吹いてくる風を沢山吸い込めばいいんじゃないかと思って窓を開け放った。谷川俊太郎が言った通りに連続でバトンタッチされた朝。異国のおやすみを受けて、僕は窓からおはようと言ってみた。何が起こるにせよ、僕らに朝は今到来し、身を切るような冷たい空気の中をちっぽけな鳥達が移動した。
 南から吹く風はそれでも冷たかった。1000年も昔に誰かが誉めたのと同じ山並みを見つめていると、遠くの方で猫が鳴いた。確かに時間は過ぎたのだ。

 神戸女学院大学内田樹先生が、「ブログの作法」について何か書いて下さい、というオファーを受け取った、とブログに書かれていました。僕は最近ブログを始めたわけですが、その作法というものに時々頭を悩ませます。特にトラックバックというものは、相手のブログから自分のブログにリンクを張る装置なのですが、これは人の家の塀に、勝手に自分の店の広告を張るようなものです。だから、手順としては当然、先にその家の人に断るべきだと思うのですが、でも、ブログの世界ではどうやらそれが普通に行われています。ブログを作るなら、つまり家に塀を造るなら、落書きや張り紙は覚悟しなさい、というわけです。

 これは大抵のブログのヘルプにある「ブログの使い方」を読んでみても、トラックバックを打つときは、単に「相手のトラックバックURLをコピーしてペースト」というようなことが書かれているに留まり、そのままヘルプを読み続けると「迷惑なトラックバックは削除することができます」と書かれている事からも覗えます。みんな好き勝手にやって、嫌な思いをした人は自分の責任で自分のケアをして下さい、という万人による万人の闘争が起こり得る環境となっている。
 もっとも、これらは常識的な礼儀が前提の上で考案されていると思うけれど。

 このブログも、少し躊躇いながら内田先生のところよりトラックバックを引いています。
 ご迷惑でないといいと思う。

 僕はトラックバックを受けたことがまだありませんが、もしもあればきっと嬉しく思うのでお願いします。


 最近やけに堀江社長のことが気になります。それで、昨日初めて堀江社長のブログを見てみました。忙しくて派手な生活。
 堀江社長ホリエモンという競走馬を所有しているそうです(こんなこと今では大抵の日本人が知っているに違いないですが)。僕は馬主というのが一体どういったものなのか良く知らないので、簡単に調べたのですが、馬主というのはとてもお金が掛かる上に、どうやら儲かるということはないそうです。世界最強のなんとかという馬の馬主でさえ赤字だそうです。基本的は馬主というのは「馬を買って、調教師に預けて、レースに出るのを待つ」ものだということ。

 これを知って、僕はこういうのを本当に「所有」というのかどうか疑問になった。何千万円も払って馬を買っても、基本的にその後は普通の競馬を見に行く人とそんなに変わらないように思うのです。ただ、レースをみて「僕の馬が走っている」と思い込むことができて、それが嬉しいということになります。

 もちろん、それでも嬉しいには違いありません。
 例えば、数年に一度しか使わなくても別荘を所有することは、数年に一度リゾートホテルに泊まるよりも、人間の精神に深い満足感をもたらすことがあります。車だって、滅多に乗らなくてもタクシーやレンタカーを利用するよりは買った方が嬉しいものです。
 「所有」において大事なことは「やろうと思えば自分の自由になるのだ」という思い込みをお金を払うという経済的な儀式を通じて得る事だと思う。

 僕らは経済社会に生きているので、お金を払うというのは実に強力な儀式になり得る。
 昔、読んだ禅の本に「どれが自分の物でどれが自分のものでない、などと小さいことを言うな、全部捨て去れば良い。全部捨て去ると自分の物だ、人の物だ、と言わなくなる。そしてその境界が消えると言う事は逆に全部が自分の物だという事でもある。全部捨てれば即ち全てを得るのだ」というような事が書かれていたけれど、全部自分の物だといっても人の物を勝手に使う訳にはいかない。もっとも悟りを得ていればこんな文句は言わないのだろうけど、我々凡夫はどうあっても「本当に自由に使える権利がないと意味がない」と考えてしまいます。

 そこで経済教の儀式を執り行います。
 僕らは形式的なものに過ぎなくとも、「お金を払う」という行為を行う事で、自分が本当に何かを得たような気分になれるのです。
 それは、我々人類の大半が経済社会に生きていて「所有」という概念が経済的法的な意味合いにおいて最も広く共有されているからです。ここでは自分が「自由に使用できるかどうか」ではなく、「所有権を持っているか」ということがポイントになり、世間にはそういった価値観が普及している。極端な話、たとえ自分が一生に一度も乗らないフェラーリを買って、それを友達が毎日借りて行ってしまっても、誰かの前で「あのフェラーリは本当は僕のものなんだよ」と言えればそれでいい、ということだって有り得ると思うのです。この場合、自分が本当に所有しているかどうかよりも「人が私に所有権を認める」ということが大事になります。

 馬主の場合は、馬を所有するということの他に「競馬を支えている」ということも関わってくるので、車や何かと同じではありませんが、やっぱりどこか釈然としない。

内田樹の研究室